家康の論功行賞は、敵対大名に対する査定が甘かった?

さて、関ヶ原の戦いに勝利した家康にとって、自らが天下人であることをどのように表現するかは、自身の判断に委ねられたことになります。そこで重要になるのが、新しい幕府の勢力圏、加えて、それに基づいて本拠地をどこに置くかという問題です。

『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

豊臣恩顧の大名を全てお取り潰しにして、徳川の家臣だけで全国を埋め尽くせるならば、それに越したことはないでしょう。そうすれば徳川家に歯向かう人間もいなくなるわけですが、さすがにそれはできない。

この関ヶ原の合戦後の段階では、それまでは秀吉から土地をもらっていた大名が、家康から所領の分配を受けることで、新たな主従関係を結ぶことになります。それまで「徳川殿」と呼んでいたのが、「徳川様」に変わるわけです。

このとき徳川の政権を打ち立てることへの反発をいかに抑えるかが課題とならざるを得ませんでした。家康の論功行賞は、敵対した大名に対しての査定が思いのほか甘かったのです。