討伐しかけていた上杉家への処断

その一例は上杉家への対応です。会津に本拠を置く上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、家康は軍勢を率いて上杉討伐に向かいました。

『三河英勇傳 (徳川家康と徳川四天王)』(芳虎、1873)。

小山に差し掛かった時点で石田三成ら西軍の挙兵の報に接し、有名な小山評定(実はなかった、という説もあります)が行われて上杉討伐を中止し、江戸へと引き返しました。このとき、家康に付き従った大名たちがそのまま、関ヶ原の戦いにおける東軍を構成します。

彼らは家康とともに上杉討伐に向かった時点で、自らを家康の差配に従う者として位置づけていたのです。

つまり、上杉家は関ヶ原の戦いの発端となったわけです。ですから「特Aクラスの戦犯」です。上杉景勝を配流、謹慎などに処して、上杉家取り潰しでもおかしくはありませんでした。

ところが関ヶ原の戦いの後、家康はその所領を一二〇万石から三〇万石に削りましたが、景勝を処断せずに上杉家を存続させました。