家康が敵対した相手を潰さなかった理由
関ヶ原の戦いで西軍の大将に祭り上げられた毛利輝元も、本来であれば取り潰しになってもおかしくないにもかかわらず、所領を三分の一に削るだけで許されています。
また、豊臣秀頼に対しても六〇万石の大名として存続させていて、大坂夏の陣で滅ぼすまでに一五年の歳月をかけています。
これが織田信長であれば、敵対した相手を徹底的に叩き潰すのではないでしょうか。ところが家康はそうしなかった。
手柄を挙げた者に新しく領地を与えるためには、敗軍の将から土地を取り上げて褒美の分を確保するわけですが、大名たちの不満が爆発しないように、さまざまに配慮していることがうかがえます。
何より驚くのは、天下取りが成功したからといって、譜代の家臣にボーナスを一切出さなかったことです。その後、譜代大名には領地を与えない代わりに政治に携わる役割を与え、外様大名に対しては領地を多く与えても、政治には関わらせなかったというのは、やはり家康流の統治の特徴だと思います。
※本稿は、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
『「失敗」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
出版業界で続く「日本史」ブーム。書籍も数多く刊行され、今や書店の一角を占めるまでに。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if"を展開。失敗の中にこそ、豊かな"学び"はある!