棟札問題も事態を紛糾させた一因に
鐘銘の善し悪しについては、京都五山の禅僧たちの意見を聞くことになった。
八月十八日に板倉重昌(板倉勝重の三男)が持ち帰った碩学七名の意見によると、程度の差はあるが、家康という諱を書き込んだこと、しかもその二字を書き分けたことについては批判的であった。
清韓の弁明は、「国家安康」「君臣豊楽」はいずれも「家康」と「豊臣」を隠題(かくしだい。事物の名を直接表面に表わさないで詠み込むもの)として入れたもので、名乗りを書き分けることも昔からよくあることだというものであった。
もしそうであれば、諱の織り込みを事前に断るか、草案の披閲を受けておく必要があっただろう。清韓や豊臣方の手抜かりがあり、そこを家康方につけ込まれることになったのだ。
他方、上棟の期日と棟札問題は、大工頭中井正清の入れ知恵によるものであった。上棟は八月一日という希望であったが、これは家の悪日でふさわしくないといったのである。しかしその底意は、大仏殿の棟札に、大檀那豊臣秀頼と奉行片桐且元の名前だけしか記載されておらず、大工棟梁であった正清の名前がないというところにあった。
いずれにしても、著名な鐘銘問題に加えてこの棟札問題もまた、事態を紛糾させた一因となった。