開戦する絶好の口実に

事態の急展開に驚いた豊臣方からは、さっそく弁明のため片桐且元が駿府へと下った。

且元は八月十九日に駿府に入ったが、家康には会えなかった。他方で、淀殿の使者大蔵卿(大野治長の母)らが二十九日に駿府に着くと、家康は時を移さず対面し、鐘銘問題なども案ずることはないといったのである。結局、且元には最後まで会わず、本多正純と金地院崇伝を遣わし、解決策については且元の分別に委ねたのであった。

九月十八日に大坂に帰った片桐且元は、家康の意向を忖度して、

・秀頼が江戸へ参勤するか

・淀殿が証人(人質)として江戸へ下るか

・大坂城を明け渡して国替えするか

という三策を献じた。ところが、家康に会った大蔵卿らの報告は、そのような対応をまったく必要としない内容だったため、且元の献策は家康におもねった姦計とみなされた。

対徳川強硬派は且元の殺害を謀ろうとしたため、身の危険を感じた且元は一族を引き連れて大坂城から退去し、摂津茨木城(大阪府茨木市)に立て籠った。家康にとってはこのことが、開戦する絶好の口実となった。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。


徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。