転封か、さもなくば滅亡か

徳川氏による覇権確立のためには、豊臣氏を滅亡させないまでも、少なくとも大坂城からは出して転封させ、「並の大名」として完全に臣下に組み込むことが必要であった。

とはいえ、二条城に出仕して礼を尽くし、何の科(とが)もない秀頼に対して、一方的に転封を命ずるというようなことはさすがに憚られた。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

ところが、家康にとってそれを迫る絶好の機会が訪れた。いわゆる方広寺大仏殿の鐘銘(しょうめい)問題と棟札(むなふだ)問題とがそれである。家康はこの問題を梃子として、秀頼に対して転封か、さもなくば滅亡かを迫る大きな決断をしたのであった。

秀頼にとって不運だったのは、無二の豊臣方ともいうべき加藤清正が慶長十六年(一六一一)に、浅野幸長が同十八年に死去したことである。

方広寺の大仏殿は秀吉時代に建立が始まり、たびたびの災害に見舞われながら、慶長十四年(一六〇九)から秀頼があらためて巨額の経費を投じて大仏殿と大仏の再建を始めた。同十七年春には再建工事がほぼ完成し、慶長十九年四月には釣鐘の鋳造も行なわれた。

五月には片桐且元が駿府に下り、大仏開眼供養・堂供養の日時や法会を行なう僧侶などについて、家康の了承を得ていた。