家康は「鐘銘など気にしなくて良い」と言ったそうですが――(写真提供:Photo AC)

松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描いてきたNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)もいよいよ12月17日の放送で最終回を迎えます。一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回のテーマは「大坂の陣開戦の真実」です。

家康の気がかり

慶長十六年(一六一一)三月の二条城での対面で秀頼が家康に臣従し、徳川公儀が豊臣公儀に優越することが明確に示されたのであるが、他方で、それによって秀頼が摂津・河内・和泉三国六五万石の一大名にすぎなくなったのかといえば、それはそうではなかった。

(1)親王・公家衆・門跡衆などの年賀のための大坂下向は、大坂の陣まで続いた。

(2)外様諸大名にたびたび課せられた御手伝普請が、秀頼には課せられなかった。

(3)慶長十六年四月の諸大名の起請文に、秀頼は署名をしていない。

(4)秀頼と大坂衆の叙任は幕府の制約の埒外であった。

つまり、秀頼が豊臣公儀を背負って大坂城にいたままでは、「並の大名」とはいえないこともまた事実であった。

老い先が短くなった家康にとって、これはかなり気がかりなことで、自分の死後に朝廷が秀頼を関白に任ずるようなことがあれば、将軍秀忠と関白秀頼とが並立するような事態さえ起こりかねなかった。