「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」
ところが、七月二十一日に至り、事態は急転回した。『駿府記』の同日条によれば、「大仏の鐘銘、関東不吉の語あり。上棟の日、吉日にあらず。御腹立ちと云々」といわれるに至った。
同月二十六日に且元から開眼供養・堂供養は八月三日の同日でといってきたのに対し、鐘銘(鐘に刻まれた銘文)・棟札(棟上に際して打ちつけられた、工事の由来を記した板)の草案を送るようにと要求しただけでなく、上棟および両供養の延期を命じた。
鐘銘は秀頼が帰依した東福寺の清韓文英が起草したもので、長文の序と三八句の銘があったが、そのうち、「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」の部分が問題となった。
林羅山によれば、前者は諱(いみな)を書き込んでいて無礼不法で、しかも「家康」の名前を切り裂いており、後者は豊臣を君として子孫の殷昌(豊かで盛んなこと)を楽しむと読め、全体として徳川氏を呪い、豊臣氏を寿ぐ内容となっているというものであった。
さらに序文では家康のことを「右僕射(右大臣の唐名)源朝臣家康公」としているのを、家康を射る下心だとまでいっており、その曲学阿世ぶりは際立っていた。