徳川公儀の確立

ところで、秀頼が死去したことで豊臣公儀は完全に消滅し、徳川公儀はいっさいの障害もなく確立した。その確立を象徴的に示したのが、七月に出された一連の「法度」、すなわち武家諸法度、禁中並公家中諸法度、諸宗諸本山諸法度であった。

とくに前二者の制定にあたっては、家康は金地院崇伝や林羅山らに命じて和漢の書物を集め、諸家の古記録を書写するなどの準備を進め、そのうえでいずれも崇伝が起草したのであった。

武家諸法度は全一三ヵ条で、七月七日に能見物のために伏見城に集まった諸大名に対し、将軍秀忠の名前で公布され、崇伝がこれを読み上げて申し渡した。

禁中並公家中諸法度は全一七ヵ条であり、慶長二十年(一六一五)七月付で、大御所家康、将軍秀忠、および関白への復帰が決まっていた二条昭実の連署で十七日に制定された。秀忠が伏見城から家康がいる二条城にやってきて、ここに公家衆を参集させ、両武家伝奏のうち広橋兼勝が読み上げて申し渡した。

諸宗諸本山諸法度は元和元年(一六一五)七月付で、家康の朱印状によって各宗派の本山宛に出された。

こうして、豊臣氏を滅亡させた直後に、武家、天皇・公家、寺院に対する諸法度の制定を行なうことにより、徳川公儀の確立を明確に示すものともなった。