神となった家康
いっさいの問題を解決し、徳川氏による万全な政権の行く末を見届けて家康が死去したのは、元和二年(一六一六)四月十七日のことであった。七五歳をもって、その波瀾に満ちた生涯を閉じたのである。
死期が近いことを悟った家康は、四月二日に本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を召し寄せ、自らの死後の対応を指示した。
四月四日付の板倉勝重宛崇伝書状によれば、(1)遺体は駿河久能山に納めること、(2)葬礼は江戸の増上寺で行なうこと、(3)位牌は三河大樹寺に立てること、(4)一周忌が過ぎたならば下野日光山に小さな堂を建て勧請せよ、関八州の鎮守となろう、との御意であった。
遺体はその夜のうちに久能山に移され、仮殿が建てられ、廟内に納められた。この間に大問題となったいわゆる神号問題は、「東照大権現」で決着がつき、家康は神になったのである。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。