NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「当時、映画界やショウビジネスの世界では人気スターの引き抜き合戦が繰り返されていて、笠置シヅ子もそのターゲットになった」そうで――。
引き抜き騒動
1940(昭和15)年、SGD(松竹楽劇団)のホームグラウンドである丸の内の帝国劇場が、契約切れで東宝に戻った。
6月上旬、服部良一と笠置シヅ子は、浅草・国際劇場の「ラ・クンパルシータ」を上演。
続いて6月下旬、国際劇場「南海の月」(7曲)公演で、SGDハワイアン・バンドが登場してシヅ子が「マリヒニ・メレ」を歌った。
ハワイアン・ジャズがひとときの涼味となり、SGDにとっても新機軸となった。
このあと9月、浅草・国際劇場と渋谷松竹映画劇場での公演「東洋の旋律」(8曲)に笠置シヅ子は休演している。
この時、笠置シヅ子に東宝からの移籍オファーがあった。東宝の樋口正美の声がけで、シヅ子は日比谷・有楽座の事務所へ行った。
「まずは日本劇場へ、日劇ダンシングチームと一緒に出演して欲しい」というもので、給料は300円という破格な条件だった。松竹より100円のギャラアップである。
OSSK(大阪松竹少女歌劇団)時代は「月給を上げて欲しい」と言っただけでクビになるほどで、ギャラアップの交渉の困難さは「桃色争議」でも体験していたシヅ子は、その好条件に素直に喜んだ。
その頃、養母・うめは、長い闘病の果てに亡くなり、弟・八郎は中国戦線へ(編集部注:翌年に戦死)、養父・音吉は働く気力もなくなっていて、養家への仕送りを増額したいと思っていた矢先だった。
それだけに、シヅ子は一も二もなく、契約書にサインをしてしまった。しかし、これが大騒動となる。