老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 

 六月半ばの週末、達也の両親が茨城から上京した。
 涼音は浅草の仲見世通りから一本奥まったところにある、老舗のすき焼き専門店の個室の昼膳を予約した。入り口こそ大衆食堂風だが、中に入ると石灯籠のある庭と純和風建築の料亭が現れる。こうした仕掛けは、羽織裏に凝る江戸っ子の〝粋〟を表していると聞く。個室のある奥座敷は、国の有形文化財にも登録されているそうだ。
 できるだけ古き良き江戸情緒の残る場所をと心を砕いた涼音の選択に、久々に上京したという達也の両親はことのほか喜んでくれた。
 長い廊下を渡って案内された個室からは、イロハモミジの滴るような緑が見える。
「仲見世通りの近くなのに、こんなに静かなんですね。立派な床の間があって、障子枠も趣があってとってもすてき」
 意匠の凝らされた座敷の周囲を見回し、達也の母がうっとりとした声をあげた。
 達也が南仏のパティスリーに招かれることになったとき、送別会を兼ねて開かれた「フェアウェルアフタヌーンティー」で既に顔を合わせている達也の母と涼音の母の麻衣子(まいこ)は、仲見世通りを冷かしているときからすっかり打ち解けていたが、今日が初顔合わせの達也の父と涼音の父の弘志(ひろし)は、少々ぎこちない様子だった。
 座席の順番でひとしきり揉めた後、結局達也の両親に上座に座ってもらい、涼音は注文がすぐにできる入り口の一番近くに腰を下ろした。
「涼音ちゃん。忙しいのに、私たちのためにこんなすてきなお店を予約してくれてありがとうね。どうせ、達也はなにもしてないんでしょ?」
 掘りごたつ式の席に着くなり、達也の母に労われる。
「いえ、達也さんは、開店準備を頑張ってくれてますから」
 涼音は首を横に振った。
 達也は、両親の隣でいささか居心地が悪そうにしている。
〝別に嫌いなわけではないけど、苦手なんだ〟
 いつだったか、達也は家族について、そんなふうに言っていた。
 達也に識字障碍があることを両親は知らない。そもそもDXなどという概念が浸透していなかった時代だ。読み書きが苦手な達也は、単純に成績不振だと思われていたらしい。
 特に達也の父親は、一人息子が早くに大学進学をあきらめて菓子職人の道に進んだことを、今でも快く思っていないという。
 涼音はそっと、飛鳥井家の様子を窺った。達也の母は本当にくつろいでいるようだったが、達也とその父は、あまり似ていないその顔に、微かに緊張した表情を浮かべている。
 やがて、葱や茸などのざく一式と共に、見事な霜降りの牛肉が運ばれてきた。最初の一枚だけを店員さんが焼いてくれた後は、もっぱら涼音と母親たちが鍋を任されることになった。
「それでは、遠山さんは工場長でいらっしゃるんですか」
 涼音が注いだビールを傾け、達也の父が弘志を見やる。
 達也の父はもともと地元の工務店で事務職をしていたが、会社が大手に吸収合併された際にリストラされ、今では高校時代の同級生が経営する観光農園を手伝っているという。
「いえいえ。工場なんて大げさなものではありません。父が起こした町工場(まちこうば)を継いだだけですから。要するに大手の孫請けってところですよ」
 ビールのコップを手に、弘志が首を横に振った。
「それも私の代でおしまいです。息子はまったく関係のない業種につきましたから」
「そうでしたか。それは少々残念ですね」
「いやぁ、今は子どもを縛るような時代でもないですからねぇ」
「いい時代になったものですよ」
「私たちのときとは違ってねぇ」
 最初のうちこそ、達也の母と麻衣子が会話を引っ張っていたが、ビールが進むにつれ、むしろ男親たちのほうがにぎやかになってきた。
「それでも、遠山さんはたいしたものですよ。私なんかは、半分隠居の身ですから。日本の高度経済成長を支えたのは、実際には町工場だって言うじゃないですか」
「いやいや、とんでもないです」
 差しつ差されつであっという間にビール瓶を空にし、二人の声はどんどん大きくなっていく。
 高度経済成長って、一体、いつの話だろう。
 父の代になってから、工場はずっと低空飛行のはずだけれど……。
 達也の父の見え透いたお世辞に、父がすっかり顔を赤くして笑っているのを少々白けた気分で眺めながら、涼音はビールの追加を注文した。
「涼音さんも、さすがに接客のプロですね。お店選びや注文も手慣れたものだ」
 達也の父のお世辞が、涼音にも向けられる。
「いえいえ、世間知らずで困りますよ」
 謙遜のつもりなのか、弘志が強く否定した。
「達也くんのような立派な青年にもらっていただけることになって、本当にありがたく思っています」
 もらっていただける?
 酔いが回っているとはいえ、父の無神経な物言いに、涼音は新しい肉を焼く手をとめそうになる。
「おい、達也」
 達也の父が、今度は隣に座っている息子を見やった。
「お前、新しく開く自分の店では料理も作るんだろう? だったら、菓子店なんかじゃなくて、レストランにすればいいじゃないか」
 父や涼音に対していたのとは全く違う、ぞんざいな口調だ。恐らく、こちらが達也の父の地なのだろう。
 遅かれ早かれ、この口調は涼音にも向けられることになるに違いない。それに気づけないほど、涼音ももう子どもではなかった。
「おい、なんとか言ったらどうなんだ」
 畳みかけられて、無言ですき焼きを口に運んでいた達也の顔色がにわかに曇る。

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