俺なら君を治してあげられると思う

男の名前は、もう思い出せない。ここでは、仮名をSとする。Sは物静かな人間で、いつも本を読んでいた。はじめて会った時、待ち合わせのファミレスに文庫本を携えてきた彼を見て、「いいな」と思った。それで、その日のうちに寝た。

当時の私は、男に身体を許すまでのハードルが異様に低かった。「夜を一緒に過ごす以上、性行為を許可せねばならない」――こんな馬鹿げた方程式を、愚かにも信じていた。ひとりの夜を過ごすのが嫌なら、誰かに身体を許すしかない。相手が父親以外なら、誰でもいい。そう思っていた。

ただ、隣にいてほしい。添い寝をしてほしい。うなされたら起こして、「大丈夫だよ」と言ってほしい。それが本当の望みだったが、子どもじみた願望を口に出す勇気はなかった。

Sとの何度目かの行為の最中、突如嘔気が込み上げ、布団の上で嘔吐した。薄い黄土色の吐瀉物が、白いシーツを染めた。ツンと鼻先を掠める臭気にうんざりしながら、掠れた声で「ごめん」と言った。彼はオブラートに一切包むことなく、直球で私に問うた。