「大正ロマン」

仁子は北区富田町で幼児期を過ごし、その後、中央区玉造、阿倍野区中道、淀川区十三南之町、東淀川区中津南通などに移り住みます。裕福だったのは玉造に住んだ頃までで、それ以後は、日に日に生活が苦しくなり、両親、姉妹、祖母とともに追われるように転居を繰り返すことになります。

仁子が生まれた当時の日本は、第一次世界大戦(1914~1918)のさ中でした。アメリカやイギリスとともに連合国側について参戦した日本は、本土が戦争の圏外にあったため輸出が急増し、造船や重工業など財閥系の企業は好況に沸いていました。しかし、物価は上昇するが賃金は上がらず、一般大衆の生活は困窮を極めていたのです。

1916(大正5)年に経済学者の河上肇が大阪朝日新聞に連載した「貧乏物語」は翌年に出版されるとすぐにベストセラーになりました。「働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手を見る」という石川啄木の言葉を引用し、格差社会と貧困の問題を論じたのです。

1918(大正7)年の夏、米価の高騰に耐えきれず、富山の漁民の主婦たちが始めた「米騒動」が全国に広がりました。小学校に入学したばかりの学童が家計を支えるために働きました。朝食抜きで登校する、いわゆる欠食児童が増えたのもこの頃です。

『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)

仁子の生活も同じでした。育ち盛りなのに食べるものがないという苦しみを味わいます。苦労に輪をかけたのが、父・重信の経営していた会社の倒産でした。一時期、収入の道を絶たれた家族を支えるため、仁子は女学校を休学して働きに出ます。自分のことより人のため、家族のためにという性格は、幼少時から仁子に備わっていた「徳」のようなものかもしれません。

しかし、どんなに貧しくても、娘三人いれば家の中には明るい笑いが絶えません。時代の雰囲気は「大正ロマン」です。十九世紀ヨーロッパのロマン主義の影響を受けて、当時の人々の心には、個人の解放や新しい時代への理想があふれていました。重信も須磨も故郷を離れ、それぞれに夢を持ち、自分の人生を切り開こうとして大阪に出てきました。仁子はそんな両親の姿を見て、おおらかに育ちました。幼少期には、ベレー帽に編み上げの靴を履いて、気取った姿の写真が残っています。いつもオシャレなモダンガールだったのです。