野心家でロマンチストな父
父・重信は大阪で人力車(今のタクシー)の会社を経営しました。
大阪で人々を運んだ乗り物は、人力車、巡航船、市電、地下鉄の順番で登場しました。人力車は1870(明治3)年に走り始め、便利で高級な乗り物として台数が増え、1902(明治35)年には二万台にも達したそうです。しかしその後、巡航船が市内の川を運行し始めると、人力車はしだいにすたれていきます。
重信の会社は当時、多くの車夫を抱え、利用客も多く成功します。これに気を良くしたのか、政治家を志したのです。しかも、貴族院の議員に出馬するため、男爵の爵位を手に入れようと奔走します。相当なお金をつぎ込みましたが、結果はうまくいきませんでした。
重信はそんな野心家でありながら、一方ではロマンチストでした。ある時、京都蹴上の発電所を見学して感動し、インスピレーションを手に入れます。蹴上発電所は琵琶湖から京都へ水を引く「琵琶湖疏水」を利用した水路式水力発電所です。日本初の事業用水力発電所として、1891(明治24)年に運転を開始し、運転開始から百二十七年たった今なお、現役の発電所として電気を送り続けています。
重信は疏水の水が電気に変わるのを見て、これからは電気の時代、水力発電の時代だと予感します。そして、日本海と琵琶湖を水路でつなぎ、大きなダムを作るという構想にとりつかれたのです。
夢を実現するため、まず岡山県の高梁川にダムを作る実験的な計画を立ち上げます。ダムの設計のために何度も高梁川を訪れ、貯水湖の位置を決め、水量などを計算し、現場で測量に当たりました。重信が設計や土木工事の知識をいつ、どこで手に入れたのか、あるいは誰か専門家に依頼したのかは不明です。
仁子が覚えているのは、父が高梁川に行った帰りに、よくウルカ(アユの塩辛)を土産に持ってきてくれたことでした。ほかに、岡山名産のママカリ(サッパの酢漬け)もありました。こうした珍味を食べるのが、仁子の何よりの楽しみでした。仁子はお酒が飲めませんでしたが、酒の肴(サカナ)に詳しいのはこのためです。
重信の計画は、旦那衆の道楽としても少し度が過ぎるように思えます。しかし当時は、そんな夢のような事業にお金をつぎ込めるほど、相当な資産家でもあったのです。
いちばん裕福だった頃に住んでいた玉造は大阪城の南に位置し、昔、豊臣家の大名屋敷が並んでいた高級住宅地です。たいへん羽振りが良く、家には書生が二人住み込み、重信の誕生日になると芸者が二人来て大賑わいだったのです。隣は財閥の鴻池家のお屋敷でした。仁子は鴻池の男の子と一緒によく遊びました。遊び相手はなぜか男の子ばかりでした。
鴻池家の十一代善右衛門は、1911(明治44)年、商家でありながら男爵に叙せられます。貴族でなくても勲功のある人や高額納税者を勅選議員とする制度があったからです。重信は、ひょっとしてこれが羨ましくて自分も爵位を手に入れようとしたのかもしれません。しかし思いは遂げられず、やがて盛況だった人力車の事業も行き詰まり、ダム建設の夢も、文字通り水泡に帰してしまうのです。