幼少期
玉造には当時、ルーミナ教会という立派な幼稚園がありました。
ポプラの並木道を五人の修道女が黙々と歩いています。そんなミレーの絵のような風景を、仁子は晩年まで忘れませんでした。それには理由があります。あこがれの幼稚園で、入園を楽しみにしていたのです。ところが、なぜか入園式が過ぎても行けず、ずっと日がたってからようやく父と一緒に訪れ、入園できたと思ったのもつかの間、引っ越すことになったのです。
「その日は、赤い毛糸で編んだお弁当箱に、玉子焼きの下に白米のごはん、教会でお昼に食べました。でも、私の幼稚園は一日だけ。どうしたのか、中道に引っ越したから……」(仁子の残した手帳:以下手帳)
重信(父)の事業がおかしくなり、急転直下、家族は窮乏の危機に見舞われたのです。玉造の裕福な生活は終わりました。阿倍野区中道の小さな長屋に引っ越します。タンスや家具は家に入りきらず、前の道に所せましと置かれたままでした。夜遅くに古道具屋が買い取りに来ることになっていたのですが、仁子には訳が分からず、家具の周りを走り回って遊んでいました。
長屋の横には大きいドブ池があり、水が少なくなると臭いました。一週間に一回くらい、夜遅く、中道の停留所の前の風呂屋に須磨(母)と一緒に入りに行きました。今まで経験したことのない生活が始まったのです。
一九二四年。仁子、七歳の年。
家のすぐ近くにあった大阪市立丸山小学校に入学します。入学式の日、晃江姉に連れられて学校へ行きますが、正門を入るとすぐに、晃江は仁子の手を引いて家に帰ってしまいます。仁子には何が起こっているのかさっぱり分かりません。幼稚園に続いて小学一年生の入学式にも出席できなかったのです。
しかし翌日、父に連れられて学校に行き、なんとか無事に入学手続きができました。どうやら晃江は、式場で樟蔭高等女学校時代の友達の姿を見つけ、いたたまれなくなって帰宅したのです。落ちぶれたと思われるのが嫌だったのでしょう。
小学生の仁子はよく遊び、よく勉強しました。
近所の阿倍野高等女学校近くにため池があり、友達とメダカやエビを捕りました。天覧書道展に学校応募で出品することになり、須磨は好物の梅を断って、仁子の入選を祈願しました。その甲斐あって、晴れて入選。須磨は言い習わし通り、その後、生涯にわたり梅を口にすることはなく、「武士の娘」の意地を見せたのです。
小学校四年生の時、家族は全員、淀川沿いに新築されたばかりの北野中学(当時)の近く、淀川区十三南之町というところに引っ越します。
「転校した小学校は小さく、周りは馬小屋のような家ばかり。父の事業は失敗。淀川で毎日シジミ採りをする」(手帳)
家賃が払えず、「家主が毎晩酔っ払い、大きい声で怒鳴るのがいや。家主に謝るのはいつも母」(手帳)。
日増しに生活が追い詰められていく様子が分かります。
でもうれしいこともありました。一つは、澪子姉が京都の画家、有元の元に嫁いだことです。また、仁子の家の近くにキリスト教会・古谷英語塾があって、そこで勉強したかった英語を学べました。須磨は進んだ考えの持ち主で、これからの女性には英語が必要と考えて、仁子を通わせたのです。この時に培った英語力がのちの仁子の人生を変えていくことになります。仁子は小学校を卒業し、金蘭会高等女学校に入学。三度目の正直、生まれて初めて入学式にも出席できたのです。