苦しい日々
二年生までは須磨が家計をやりくりして、何とか通学できましたが、三年生になると七円の月謝が払えなくなりました。やむなく、仁子は休学し、大阪電話局へ働きに出ます。市外電話を扱う市外課の見習い職員になりました。
その間、女学校は一年間休み、また三年生から通い始めたのです。桑島、馬淵の二人はもう上級生になっていましたが、あいかわらず仲良しでした。でも二人とも一年先に卒業してしまったため、卒業記念のアルバムに一緒に写ることはできませんでした。
仁子は女学校に復学してからも、生活を助けるため電話局の仕事を続けます。仕事は夜勤になりました。朝、家から学校へ行き、終わるとその足で電話局へ出勤し、一泊して翌朝そのまま学校へ行きます。
「その間、弁当は四ついるのに二つだけ。チリメンジャコに小さいお醤油。死に物狂いのように、卒業までがんばる」(手帳)
せまい家に重信、須磨、祖母のみちの、仁子の四人で生活していました。
「父は歳を行くし、働く体なく、金なし」
いよいよ、なすすべがなくなります。
しばらくして、鳥取から須磨と一緒に出てきた祖母みちのが八十四歳で亡くなりました。
その翌年、久保家に嫁いでいた晃江姉が、仁子らの看病の甲斐なく、二十七歳という若さで息を引き取ったのです。
ある朝、仁子が電話局の夜勤明けで帰宅すると、家具がすべて外に放り出されていて、家の中に入れないように扉が釘づけされていました。家賃が払えないため、強制立ち退きになってしまったのです。お隣の判事さんが親切な方で、家の中に家具を入れてくれ、その晩は一泊させてもらうことができました。
また引っ越しです。
今度は、十三から淀川を渡り、阪急・中津駅に近い東淀川区中津南通4丁目14(現在の北区)に移り住みます。同居する家族は両親と仁子の三人だけになりました。
「ひどいあばら屋の二階の二間。丸い小さいお膳、高さ一メートルくらいの水屋、大きい古い米びつ、フトン二組。炊事するところなし。七輪一つ洗濯場に置く。まるで映画そのまま。最低の貧乏暮らし」(手帳)