東京大空襲、そして結婚

私は柳橋の花柳界の真ん中で生まれました。父も母も常磐津の師匠で、叔母は日本舞踊の先生。まわりは芸人か花柳界の人しかいない、という環境でした。父は歌舞伎で三味線を弾いていたので、歌舞伎座の楽屋が遊び場のようなもの。

役者さんが見得を切るのを真似たり、せりふをお稽古したりしていました。もちろん子どもの頃から日本舞踊もやっていましたし、常磐津節を役者さんたちにほめられたり、けっこううまかったんですよ。

両親は夜も舞台の仕事が多く、子どもを寝かしつけるのは長唄をやっていた祖母の役目。子守歌は『娘道成寺』や『勧進帳』でした。絵本の読み聞かせのかわりに、花子が蛇になった、なんて話を聞かせてくれるわけです。

日中戦争の間は、大陸の大連や上海に日本人街ができると花柳界もできて、父は芸者さんたちに教えに行ったりもしていました。今も思い出しますのが、毎年夏の両国・隅田川の川びらきです。

家の物干しにお弟子さんやお友達と集まり、美しい花火に歌や三味線。本当に素敵な夜でした。やがて太平洋戦争が始まると、一切中止に。花火の音はなくなりました。

1945年3月10日、東京大空襲の日。あの夜、ババーンという炸裂音とともにバラバラと降ってきた焼夷弾は、花火よりすごかった。忘れられない光景です。