私たち一家は界隈の人たちと一緒に、橋の近くにあった唯一のコンクリートの建物、東洋ベアリングに逃げ込みました。
一晩中、爆撃音が聞こえ、眠れない夜を過ごし、明け方に窓を開けるとあたり一面の焼け野原。それまで柳橋からは見えなかった富士山が、煙と朝日のため真っ赤に見えました。わが家は跡形もなくなっていた。
その後の避難生活のなかでどんどん食料事情が悪くなり、お米はなくなって麦の配給に。それがだんだん、ほとんど何もなくなる。粟や稗がほんの少し。本当に大変な時代でした。
そして戦後、柳橋は再び花柳界として息を吹き返しました。私は終戦の翌年に小牧正英先生が公演された『白鳥の湖』を観て、クラシックバレエを始めました。
3年後、バレエ団の舞台に立つようになりましたが、その後、俳優座に入った兄の影響で私も俳優座養成所の研究生として、演劇の道へ。ちなみに兄は後に映画スターとして活躍した菅原謙次です。
両親が若くして相次いで亡くなったこともあり、本当に仲のいいきょうだいでした。私は16歳のとき、東京美術学校(今の東京藝術大学)の学生だった彼末宏(かのすえひろし)さんと知り合い、彼の卒業とともに結婚。兄と私たち夫婦、3人で暮らすようになりました。