今となると無念でしかないのですが、当時かかっていた大学病院では筋疾患の進行の対処法が確立していませんでした。姉がスマートな処置を受けられなかったことには、時代を鑑みたとしても疑問が残ります。

皆さん医療ドラマなどで、口から管を挿して人工呼吸器に繋がれている状態(気管挿管)を見ることがあると思います。あの状態の患者はみな鎮静で眠らされていますよね? 私の姉は意識のある状態で気管挿管を一年ほども継続しました。挿管具の交換にも危険と苦痛を伴うので、これはわりと壮絶なことです。姉はその間に全身の筋力が落ちてしまって、以後寝たきりとなりました。

私が中学二年で姉と同じように心肺機能が悪化した際はすぐに気管切開を行い、おかげで私は今も家の中を歩いたり座ったり喋ったりすることができているのです。なぜ姉の時もすぐに気管切開に切り替えていただけなかったのか、不思議でなりません。

小児科の面会時間が午後からのため、平日は私が下校すると、病院へ行く母と入れ替わりになります。ベビーシッターを使っていた時期もありますし、鍵っ子だったこともあります。小学校は地域の公立小に通いました。

骨と皮だけのガリガリに痩せた子どもで、体力がないことに加えて、私は子どもながらに生活文化のまったく違う粗野な子どもの集団が苦手でしたので、授業以外の時間は何もかも居心地が悪くて大変でした。

幼稚園そして小学校の6年間および地元の中学に進んでからも、私は必要な場面以外は言葉を喋らずに首をタテかヨコに振るだけで通しました。当然友達はできません。

それでも稀に奇特な子が親しくなってくれるのですが、仲良くなりはじめると相手が転校してしまうということが3、4回続いて、どうも私は友達ができない運命なんじゃないかと思っていました。

いちばん仲が良くなって最長記録となりつつも例に漏れず転校していってしまった子が、芥川賞受賞後にInstagramで私を見つけてくれて、図らずもお互い近況を知ることができたのは嬉しかったですね。