「私はいわゆる《本好きな小説家志望の少女》ではありませんでした」(撮影:深野未季)
重度障害者の生と欲望を描いたデビュー小説『ハンチバック』で芥川賞に輝いた市川沙央さん。主人公と同じ難病をかかえる彼女は、病気がなかったら小説家にだけはならなかったと明かします(イラスト:コーチはじめ)

この数年ほど、私は人探しをしていました。老母の元カレを探していたのです。父と結婚する前に付き合っていた、ほとんどソウルメイトのような恋人を振ったのは母です。私は幼い頃、戸棚にしまわれた缶の中に、結婚後届いた二通の手紙を見つけて読んだことがありました。いえ、こっそり読んだわけではなく母の解説付きで。

この方は母と別れたあと渡米し、とあるジャンルの草分け的な実業家として成功されたそうです。私の知る情報はそれだけ。それと、去年『ニューヨーク・タイムズ』に載ったご本人のインタビュー記事が手がかりとしてあるだけです。

もう何もかも良い思い出になった頃合ですしコンタクトを取ったら面白いだろうと思うのですが、方法がわからない。だから去年の秋頃に思ったんです。もしも私、いま書いている小説でデビューできたら、あの手紙を使って時を超えた壮大な恋愛小説を書こう、と。そしたらモデルにしてよいかどうかの許諾をもらうためコンタクトできる。

よし、そのためにも手元の原稿(『ハンチバック』のことですが)を頑張るぞ、と……非常に馬鹿げた空想をしていたのでした。