天海とは何者だったのか
一方、崇伝と天海は家康が深く帰依していた僧侶ですが、どちらがより信頼されていたかというと、それは崇伝になるようです。ですが、家康の没後に、天海は崇伝以上の権勢をもつにいたった。
それは神号の選定問題でも見て取れる。幕府は家康を「神さま」として祀ることを決定しましたが、このとき崇伝は、神号は「明神がふさわしい」としました。
しかし天海は「明神は縁起が悪い」と難じます。豊臣秀吉は豊国大明神として祀られたが、豊臣家は滅びたではないか、というのです。結局、「権現」がふさわしい、との天海の意見を幕府は採用しました。
天海という人物の前半生はよく分かっていません。そのため彼の正体は明智光秀であるという俗説も生まれたのですが、信頼できる史料によれば、かなりの高齢であるときの彼は川越の喜多院という天台宗寺院の院主を務めていた。そこで家康とめぐり会い、天海はブレーンとして登用されたのです。
天海は会津の蘆名家の一族ではないか、という有力な説があります。この説が正しいとすると、晩年の家康に日光の来歴や功徳を説いたのは天海だったかもしれない。
会津と日光は街道で結ばれています。天海はもとから日光をよく知っていたのです。
それで家康は「小さなお堂」と言ったのに、大きな、この上なく豪華な伽藍を建立し、家康を祀った。自身の江戸での本拠である寛永寺(天台宗)とあわせ、「山王一実神道」という神道と仏教を融合した教えの聖地としたのではないでしょうか。