「違和感」という言葉で、私は他者をジャッジしている

40過ぎたら勘は経験値の蓄積が導き出した推測だ。「今朝はおにぎりを100個食べました」と誰かが言ったら、確かめずとも嘘だとわかる。私が5歳児だったら、わからないだろう。経験が浅いから。

しかし、経験には年を重ねるごとに個々人のバイアスがかかる。よって、私の持つ違和感にも私のエゴや歪んだ認知が作用している。私は私の持つ違和感を絶対視してはならない。そうわかっていても、大人になればなるほど、やはり違和感が拭えない場面が多々ある。歳を重ねると嘘がうまくなるからだろう。

私は底意地が悪いので、誰かがSNSで自分の幸せの数を毎日のように数え出したら、違和感センサーが反応する。投稿者は、むしろ幸せを感じられていないのだろうと邪推する。

自己防衛のために、違和感という名の勘が働くのは良いことだ。「なんだか違和感がある。早く帰ろう」とか。しかし、すべてにおいてジャッジメンタルな人間にはなりたくない。だが、確実にそうなりつつある。「違和感」という言葉で、私は他者をジャッジしている。そして、どこかで自分の違和感を絶対的に信用している。

恐ろしいのは、自分が他者に与える違和感を察知できないことだ。私が他者に「違和感があるよ」とは言わないように、他者も私にそうは言わない。だから、心と言動がそぐう状態にあるかを、自分でこまめにチェックするしかない。

自分に嘘をつかないでいることは、子どもの頃からずっと難しい。でも、やるしかない。だって、私が違和感を持った人たちは、たいていあとから辻褄が合わなくなって、大変な目にあっているから。


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