(イラスト=川原瑞丸)
ジェーン・スーさんが『婦人公論』に連載中のエッセイを配信。今回は「違和感の正体」について。違和感について近頃よく考えているというスーさん。その結果たどり着いた「大人になればなるほど、違和感が拭えない場面が多々出てくる理由」とはーー。

違和感の正体

近頃は、違和感の正体についてよく考えている。違和感を持つことが少なからずあるからだろう。

取っかかりを掴むため、まず辞書を引いた。小学館デジタル大辞泉には、「しっくりしない感じ。また、ちぐはぐに思われること」とあった。「違和」とは、「からだの調子がくずれること。周囲の雰囲気に合わないこと」だそうだ。

なるほど、肉体に関する違和の解釈はすんなり腑に落ちる。「お腹に違和感がある」とは、普段の肉体とは異なる感覚を察知した、という意味だ。病院へ行くことで違和は解消される。

しっくりしない、ちぐはぐ、周囲の雰囲気に合わない、に関しても、おでんとともに紅茶を出されたら違和感を持つし、葬式にマイクロミニスカートの参列者がいたら、まあ本人の好きにしたらいいが違和感は否めない。どちらも違和感の正体はハッキリしている。そぐわない、ということ。

私がどうにも引っかかるのは、他者の言動に自分が違和感を持ったときだ。言動がしっくりこない、そぐわない、ちぐはぐに感じる、とはどういうことなのか。言語化しづらいモヤモヤを「違和感」のひと言で片づけまくってきたせいで、違和感の正体が掴めない。

他者の言動に持つ違和感とは、煎じ詰めればジャッジメントだ。否定や断罪まではいかない、「でもやっぱり、なんかおかしいよ」というジャッジメント。相手の言動をそのまま受け取れない我が心の状態を高解像度で見てみると、要は相手が嘘をついていると私が判断していると言える。あら、なんか怖いわね。他者の言動の真偽を私が決めるなんて、不遜にもほどがある。だがしかし、違和感はそこかしこに確実に横たわっている。