本の「物」としての存在感

20歳になったばかりの奥村さんとは、実は2年前から『西日本新聞』の連載でコラボさせていただいている。それで、福岡でティーンに成長した彼が、子どもの頃とは違う絵を描いていたことはよく知っていた。彼は、子どもの頃に谷川さんともコラボしている。だから谷川さんとの連載が始まったとき、もしこれが書籍化されるなら絶対に奥村さんにイラストを描いてほしいと思っていた(だから、前述の「期せずして」というのは噓かもしれない)。

奥村さんによるカバー装画は、住宅やビルが立ち並ぶ街の風景だが、西日本新聞の担当記者は、「福岡っぽいですよね」と言った。英国のわたしと東京の谷川さんの往復書簡のカバーが、福岡の街の絵。面白い。街の上に広がる空はどこにいようと同じだ。書店に行く機会があれば、そのカバーをとって見ていただきたいのだが、表紙画も素晴らしい。この絵。このタイトルの配置。デザイナーの力量も相まって、「物」としての存在感が強い本になった。

(絵=平松麻)

「物」としての本といえば、息子に聞いた話を思い出す。彼が10歳ぐらいのときだったと思う。小学校の国語の授業で、「本の未来」について話し合ったというのだ。「将来、本はなくなると思うか」が、先生からの質問だったそうだ。

スマホですべての情報をゲットする世代にしては意外なことに、「なくなる」と答えた子は一人もいなかったという。ただし、いまとは違う位置づけのものになって残っているだろう、と言った子がほとんどだったらしい。「本はいまよりスペシャルなものになる」というのだ。たとえば、ある子どもは、家でディナーパーティーを開くときに、両親が居間の本棚の本を入れ替えることに着目していたらしい。英国のミドルクラスのご家庭は、居間に必ずと言っていいほど大きな本棚がある。それは、書斎の本棚のようにびっしり本で埋まっているわけではなく、ところどころブックエンドを置いてスペースを作り、花や写真立てやオブジェのようなものを飾ったりしている。そこに立っている本は、情報が書かれた印刷物というより、インテリアの役割を果たしているのだ。