ポスト村上天皇を巡る混迷

この不思議な関係を理解するには、村上天皇の時代にまでさかのぼらなければならない。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

村上天皇は康保(こうほう)4年(967)に在位のままで急死し、皇位は皇太子だった第2皇子の憲平親王に移った。しかし彼はその天皇交替の時期にほとんど積極的に動いていた形跡がなく、ほとんどの公務や儀式を欠席している。

じつは冷泉天皇は体が弱い上に精神的にも疾患があったようなのである。そのためとても長期政権を保てそうではなく、即位とともに皇太弟として同母弟の守平親王(円融天皇)が立てられ、わずか2年で譲位となった。皇太子は即位の翌年に生まれた冷泉の長男、師貞親王である。ここから混迷が始まる。

冷泉天皇、円融天皇の間には為平(ためひら)親王がいた。3人の母は藤原氏直系の北家右大臣(ほっけうだいじん)藤原師輔の娘、中宮(ちゅうぐう)藤原安子(やすこ)である。

冷泉には同じ年の生まれの兄の広平(ひろひら)親王がいたが、その母は藤原南家の大納言藤原元方(もとかた)の娘の女御祐姫(にょうごすけひめ)で、バックは比べものにならなかった。

のちに、冷泉の精神的不安定は元方と祐姫の怨霊の仕業とされ、2人の怨霊は大変恐れられたと伝わるが、その理解は果たして正しいのか、私は疑問を持っている。

そもそも冷泉の異常性は皇太子時代から知られていた。ならば天皇の器ではないとして廃嫡(はいちゃく)すればいい。廃皇太子はいくらでも前例がある。同母弟には為平親王がおり、いくらでも代わりができたはずなのである。