「国風文化が盛んになった」とされる理由

明治維新の時もそうですが、諸外国と自らを比較しながら、緊張感をもって国家の変革を行う。こういう時に日本人は一生懸命に勉強し、驚くほどの能力を発揮します。

日本が独立国としての実力を蓄えたのは、古代でも近代でも、やはり外国との「比較」を通じて、ということがいえるでしょう。

ところが都が山城・平安京に移って100年もすると、東アジア諸国は直接の脅威ではなくなっていきます。それにつれて「足りない部分は外国に学べ」という意欲も減衰し、遣唐使も派遣されなくなり、日本のエリートの視点は内向きになっていく。

これが「国風文化が盛んになる」と教科書が説く状況の前提にある国家的な動向だと思います。

律令を懸命に整備していたとき、為政者たちは確実に、日本の民衆の動向を意識していたでしょう。様々な階層の人々がいきいきと生活することによってのみ、国力は増進し、軍事力は整備され、かりに他国から侵略を受けても戦うことが可能になる。

でもそうした時期が遠くに過ぎゆき、どうやら他国との争いはなさそうだ、となったときに、彼らが見る景色は次第に狭まっていった。