平安時代の貴族は500人くらい

『伊勢物語』で主人公の「男」(在原業平がモデルともいう)は、帝に嫁ぐべき高貴な「女」(藤原高子がモデルという)を連れて京を脱出します。ところが大阪まで逃げたときにそこに「鬼」が出現し、あわれ「女」は食べられてしまう。

藤原氏の追手により高子が連れ戻されたことを意味していると思われる表現ですが、平安貴族たちにとっては、大阪は「鬼」が出現する魔境なのです。また『源氏物語』では光の君が須磨・明石に移り住みますが、「『鄙』にも稀な美人」と巡り会う。明石も、鄙=田舎、なのです。

かつて仁徳天皇は「民の竈(かまど)」の様子を注視された。でも、大阪や明石を田舎、と断じるこの時期に、平安貴族たちはどれほど「民の生活」への責任を持とうとしていたか。光の君は朝廷のトップである太政大臣に昇進しますが、もちろん彼がどんな政治を行ったかは、『源氏物語』には描かれていません。

平安時代の日本列島にはおそらく1000万人くらいの人が住んでいた。貴族は500人くらいでしょうか。

その500人が1000万人と密接に結びついていた、というのなら、500人の動向を分析する元気が沸いてきますが、どうもそうではないらしい。この点で、平安時代の宮中の物語は、江戸時代の大奥とは性質が異なるように思える。