幸せな生活
塩の生産は明治以降ずっと国の専売制で勝手に作ることは禁じられていました。太平洋戦争が起こって塩の生産が減り、輸入も困難となったため、1942(昭和17)年に「自家用塩制度」という法律が施行され、非常手段として塩の生産が認められました。百福のアイデアは、多くの人に喜んでもらえる上に、国の方針にも沿ったすばらしい事業としてスタートしたのです。
とはいえ、素人のやることですから最初は失敗の連続です。屋根のない露天の工場なので、雨が降るとせっかく溜めた濃縮液が流されてしまいました。ある時など、電気がショートして付近一帯が停電し、電力会社から大目玉を食いました。
これはのちに、若者の一人がいたずらをして、配電盤にカニを突っ込んだためと分かりました。できた塩には少し黄色っぽい色がついていましたが、近所や泉大津の市民に配ると大変喜ばれたそうです。余った塩はゴマや焼き海苔を入れて、ふりかけにしました。
また、漁船を二艘買い、沖合でイワシを捕りました。魚の群れが、それこそイワシ雲のように湧きあがりました。全員、連日の豊漁にわきました。とれたてのまだ生きているイワシを、ムシロの上に広げて乾燥させると上等の干物になったのです。
水泳の得意な仁子は、若者たちと一緒に船に乗りました。沖合で泳ぎ、一緒に漁をし、子どものようにはしゃいでいました。百福はあまり泳げません。仁子が海に入って、「はい、ここまで」と叫ぶと、バシャバシャと泳ぎ始めます。仁子は少しずつ沖に後ずさりして、百福を困らせます。
楽しい日々が過ぎていきました。貧しさと、戦争の苦しみから解放されて、ようやく仁子にも幸せな生活が訪れたのでした。