「中華交通技術専門学院」の設立

百福はいったん動き出すと止まりません。

塩作りも軌道に乗らないのに、もうほかの事業を始めたのです。

1947(昭和22)年、名古屋に「中華交通技術専門学院」(昭和区駒方町三丁目一番地)を設立しました。自動車の構造や修理技術、鉄道建設の知識などを学べる学校です。

「今度の戦争で日本は中国に迷惑をかけた。中国は広いから、民生の安定のためには、自動車や鉄道などの交通整備が必要になる。将来、技術協力できる人材の育成をしたらどうですか」と勧められたのです。

勧めたのは運輸、鉄道行政に詳しい佐藤栄作でした。

百福は明治生まれの男らしく、世のため人のためという言葉が好きでした。さらに、お国のためと言われると、ついその気になってしまう人の良さがありました。それで、何度か痛い目にあうのですが……。

学校設立に際しても、「若者に食と職を与えて技術を覚えさせ、将来、自分の力で生活できる道を開かせたい」という思いに突き動かされたのです。

トヨタ自動車の隈部一雄(当時専務)に頼むと、自動車の車体、エンジン、シャーシなどを無償提供してくれました。名古屋大学は十一人の先生を臨時講師として派遣してくれ、佐藤栄作も、全国の国鉄(現在のJR)の駅に給付生募集のポスターを無料で貼るように働きかけてくれました。

給付生には奨学金として月五千円を与えました。あっという間にたくさんの生徒が集まりました。第一期の学生は、在日の中国人と日本人がそれぞれ三十人、計六十人でスタートしたのです。

塩作りと学校と、周囲からいろいろな厚意に支えられて始まった百福の仕事は順調に推移するかに見えました。しかし思わぬ落とし穴が待ち受けていたのです。百福の意図は誤解され、水泡に帰すことになりますが、そのことはまたの機会にお話しすることにしましょう。