あっという間に崩れた幸せな生活

大阪のGHQ軍政部で裁判が開かれ、たった一週間で四年間の重労働という判決が出ました。百福の言い分は一切聞いてもらえず、財産が差し押さえられました。泉大津の工場、炭焼きをした上郡の山林、大阪市内の不動産もことごとく没収され、百福の身柄は巣鴨プリズン(旧東京拘置所。戦後GHQが接収)に移されたのです。

仁子にとって、ようやく手に入れた楽しく幸せな生活が、あっという間に崩れてしまいました。生まれてすぐに亡くなった娘にどこか面差しが似ていると、大切にしていた人形までが競売のために持ち去られてしまいました。悪い夢を見ているようでした。子どもの頃何度も、逃げるようにして家を追われた悲しい光景が脳裏によみがえってきます。

そんな仁子を支えたのは須磨でした。「私は武士の娘」といつも気丈だった須磨は、この時も落ち着いて、「起こったことは仕方がない。クジラのようにすべてを呑み込みなさい」といつもの言葉で仁子を勇気づけたのです。それだけではありません。財産が差し押さえられ、競売にかけられていく中で、しっかり自分のへそくりを守り通しました。百福が巣鴨にいた間の生活費はそれでまかなわれたのです。

仁子ら家族は泉大津の家を立ち退き、知り合いを頼って大阪府池田市呉服(くれは)町の借家に移り住むことになりました。その時、仁子のおなかには新しい命が宿っていました。ほとんど臨月で、仁子は大きなおなかを抱えて、差し入れを持って巣鴨まで面会に出かけるのでした。

百福は会うなり、自分の不在中にやっておくべきことをあれこれと指示します。仁子はそれをメモするだけで精いっぱいで、ほとんど何もしゃべれません。あっという間に時間がたって、百福は、「おう!」と手を上げて廊下の向こうに行ってしまうのです。仁子は自分の気持ちを少しも聞いてもらえず、いつも唖然と見送るだけでした。