脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

      

       〈十三〉

 

「チャーハン稲荷一つ!」

「じゃあこっちも、チャーハン稲荷二つで!」

 午後八時四十分。コールセンターの仕事を終えて「まねき猫」に帰ってくると、店内には耳慣れない注文が飛び交っていた。

「あ、明日美さん。お帰りなさい」

 立ち飲みの客の間を縫うようにして、ビールを運んでいたキョウヤが、照れたような笑みを見せる。求がアルバイトとして呼び寄せた、大学生だ。平日夜の、ホール係である。昼はやはり求が呼び寄せた、パチンコ屋勤務のアンリがダブルワークで頑張っている。

 ハイトーンのマッシュヘアという派手な髪型をしているわりに、キョウヤはシャイだ。厨房にオーダーを通す声も小さくて、「なんだって?」と聞き返されている。

「チャーハン稲荷、一つと二つだってよ。ついでに俺にもおくれ」

 カウンターで焼酎を飲んでいた「タクちゃん」が、間に入った。ハンドサインつきで、こなれた様子だ。明日美に気づき、「おう」とその手を振った。

「本当に、メニューに加えちゃったんですね」

「ああ、意外と人気だぜ」

 求が小皿に稲荷ずしを二つ盛り、差し出してくる。「タクちゃん」はそれを受け取ると、カウンターに置くより先に片方を頬張った。

「うん、これこれ。甘辛く煮た油揚げの中に、コショウをちょっぴり利かせたチャーハン。合ってんだか合ってねぇんだか、でも妙に癖になるんだよなぁ。料理上手なひかりちゃんじゃ、これは考えつかねぇよ」

 遠回しに、馬鹿にされている。どうせ明日美は、料理が下手だ。

 アヤトに持たせるために、大急ぎで作ったチャーハン稲荷。外出から帰ってみると、多めに作っておいた分が「タクちゃん」に食べられていた。勝手に冷蔵庫を漁るなよと腹が立ったものの、「なんだこれ、旨(うめ)ぇじゃねぇか!」と絶賛され、怒るに怒れなかった。

 間に合わせで作ったものを、そんなに気に入ってもらえるとは。「タクちゃん」はさっそくひかりに、「店でも出してくれよぉ」と懇願していた。

 そもそもひかりが味付けをした油揚げに、冷凍チャーハンをチンして詰めただけのもの。再現が難しいわけでもなく、昨日の今日でメニューに加えられたようである。よく見れば壁の数か所に、『新登場 チャーハン稲荷!』という手書きのポップが貼られている。

「お帰りなさい。晩ご飯どうする?」

 焼き鳥を焼く手を止めず、ひかりがカウンター越しに聞いてくる。「まねき猫」に寝起きするようになってから、夕飯の心配をしなくてもよくなったのはありがたい。

「じゃあ私にも、チャーハン稲荷を。あと鯖の塩焼きと、汁物代わりに肉豆腐もらえます?」

 メニューはもう、頭の中に入っている。組み合わせによって、定食にすることも可能だ。でもあまり面倒な注文をすると、求に「忙しいんだよ!」と叱られる。

 グリルでじっくり焼かねばならない鯖の塩焼きは、「面倒な注文」の部類に入る。それなのに求はこちらをちらりと見ただけで、なにも言わずに冷蔵庫から鯖が入っているトレイを取り出した。

 文句を言われないに越したことはないのに、なぜか気まずい。昨日、路上で言い合いをして別れたっきり、求とは顔を合わせていなかった。

 鯖が焼けるのを待つ間に、二階の洗面台で手を洗う。夜になっても気温はあまり下がらず、首元が汗でべたついていた。こういうとき家に風呂やシャワーがないのは不便だ。汗拭きシートで体中をざっと拭ってから、着替えを済ませた。

 階段を下りて、再び酔客たちの喧騒の中へ。食器の持ち運びが面倒だから、食事はいつも階段下の机で食べている。

「明日美さん、できてるよ」

「はい、ありがとうございます」

 ひかりに呼ばれ、カウンターに向かった。求が料理の載ったトレイを、無言で差し出してくる。明日美とは、目を合わせようともしなかった。

 ――なんだっていうのよ。

 もしや、まだ怒っているのだろうか。でも昨日の去り際の表情は、むしろ戸惑っているように見えた。

 求のことは、いつもひと言多くてうるさい子だと思っている。そのくせ黙り込まれると、なにを考えているんだろうと気が揉める。

 かといって、今ここで問い詰めるわけにもいかない。店は営業中で、注文は次々に入ってくる。明日美もまた、黙ってトレイを受け取った。