カウンターの箸立てから割り箸を抜き取り、階段下の席に着く。湯気の上がる皿を前にすると、急にお腹が空いてきた。「いただきます」と手を合わせ、まずは肉豆腐の汁を啜る。
汁物代わりにするにはやや濃いめの味付けだが、汗をかいた後の塩分補給には最適だ。薄切りの玉ねぎが入っているため、ほんのり甘みを感じられるのもいい。豆腐にも、しっかりと味が染みている。
塩鯖に箸を入れると皮がぱりっと弾け、脂がじわりと滲み出る。焼き具合がいいのだろうか、身がほくほくとしている。塩加減も絶妙だ。
さていよいよ、チャーハン稲荷。ひと口齧り、明日美は「おっ!」と目を見開いた。
中身のチャーハンは、おそらく冷凍食品じゃない。ひかりが作ったものだろう。卵がふんわりしていて、胡麻が混ぜ込まれている。
油揚げの甘辛さに、黒コショウの辛味、それから胡麻の香ばしさが、一見アンバランスな組み合わせを繋いでまとめている。昨日のチャーハン稲荷は「タクちゃん」に食べられてしまって明日美の口には入らなかったが、きっとこちらのほうが美味しいだろう。
普通の稲荷ずしと比べ、パンチのある味だ。これはお酒にも合うに違いない。
「明日美さん、飲み物はいらないんですか?」
仕切りの暖簾を掻き分けて、キョウヤが顔を覗かせる。
明日美は決して、アルコールに強いわけではない。晩酌なんて、一人のときはめったにしないのだけれど――。
「レモンサワー、薄めで」
迷った末に、頼んでしまった。
閉店と同時に、アルバイトのキョウヤは帰ってゆく。だからその後の掃除は、明日美も手伝う。
床は今日も、ゴミだらけ。灰皿を置いてほしいと要望を出したものの、「スペースがない」と、ひかりや「タクちゃん」に一蹴された。たしかに各テーブルは小さく、カウンターの客も満員のときには隣と肩が触れ合う距離だ。灰皿があると、そのぶん料理やドリンクが置けなくなってしまう。
ならばせめてと、柄の長い箒を新調した。お陰で無理な体勢を取らずに済み、腰への負担は軽減された。
明日美が掃いた床に求が水を撒き、デッキブラシで擦ってゆく。やはりこちらを、まともに見ようとはしない。掃除を終えると求はさっさとエプロンを脱ぎ、「お疲れっしたー!」と帰っていった。
すでに、十一時半を過ぎている。瞼が重たくなってきたが、まだやるべきことがある。
「明日美さん、今から大丈夫?」
「はい、お願いします」
頷いて、明日美はカウンターに寄りかかっているひかりの隣に立った。
「おお、すごい。これは便利!」
スマホを手にしたまま、思わずはしゃいでしまった。
カウンターの上には、今日の日付の領収証。八百屋と魚屋からの、仕入れ分である。
「でしょ? 今どき帳簿付けなんて、会計ソフトに任せちゃえばいいのよ」
ひかりもまた、したり顔。おもむろに煙草を咥え、火をつけた。
時次郎の入院費用を賄うためにも、店の収支は把握しておきたい。ひかりにそう申し出たのが、昨日のこと。相談の末、今後は明日美が経理を担当することになった。
とはいえこれまでの人生で、確定申告など一度もしたことはない。商業高校を出ていれば簿記の心得があるはずだが、明日美は普通科卒だ。ためしにネットで『複式簿記』と検索してみると見慣れない言葉がずらずら並んでおり、頭が混乱しそうになった。
しまった、これは手強そうだ。帳簿付けのいろはから、ひかりに教わる必要がある。少しずつ地道に覚えてゆかねば、と覚悟していた。
それなのに、ひかりから引き継いだクラウド会計ソフトの手軽さときたら。領収書やレシートをスマホで撮影するだけで自動的に仕分けが行われ、現金出納帳が作成できる。写真情報から、金額や勘定科目を推測してくれるそうで、わざわざ手で打ち込む必要がないのだ。
「念のため、勘定科目と金額は確認してね」
ひかりの指示に従って誤りがないことを画面上で確認し、仮登録ボタンを押す。後ほどパソコン上で本登録をすれば、帳簿に反映されるというわけだ。
「預金出納帳は通帳の明細をネット経由で取り込めるから、これも簡単。この二つの情報を元にして、総勘定元帳も損益計算書も貸借対照表も、自動で作成してくれるのよ。ホント、いい時代になったわ」
出た、耳慣れない言葉の羅列。理解はまだ追いついていないけど、会計ソフトが作成してくれる部分が多いようなので、覚悟していたほど煩雑な作業はなさそうだ。技術の進歩に感謝である。