「ありがとうございます。これなら私にもできそうです」
「よかった、こっちも肩の荷が下りるわ。時さんがあまりに適当だから帳簿を預かることにしたけど、実は私も得意じゃないのよね」
思えば、一従業員にすぎないひかりに、ずいぶんな負担を強いていた。調理担当の週六勤務、しかも長時間労働。開店及び閉店作業に掃除、その上さらに経理まで。非常事態だったとはいえ、愚痴も零さずよくやってくれていたものだ。
「すみません、ブラックな働きかたをさせてしまって」
「それはべつに。時さんが元気だったころからこんなものだったから」
「甘えすぎですね」
「いいのよ。恩があるもの」
またもや「恩」だ。時次郎に関わった人間は、頻繁にそれを口にする。
「差し支えなければ、聞かせてもらっていいですか?」
「堅苦しいわねぇ」
ひかりはふふっと笑うと、吸いかけの煙草を足元に落としてサンダルで踏みつけた。掃除をしたばかりなのに、綺麗になった床をいつも一番に汚す。まるで先陣を切るのは自分だと、決めているみたいに。
「ないわよ、差し支えなんて。私ね、長いことスナックやってたの。タクちゃんや宮さんは常連だったし、時さんもここの営業終わりによく来てた。突き出しなんかけっこう凝ってて、評判よかったのよ」
そう言いながら、ひかりは新しい煙草に火をつける。よく見ると髪の生え際に、ちらほらと白髪が覗いていた。
「でもコロナが始まって、一回目の緊急事態宣言とそれに続く自粛でもう、もたなかった。これ以上続けても借財がかさむだけだし、どうしようかと悩んでたら、時さんが『よかったらうちに来いよ』と誘ってくれたのよ。調理担当の人が田舎に帰ることになって、困ってたみたいでね。でもそう言ってくれたお陰で私、長年やってきた店への未練をすっぱりと断ち切れたのよ」
歳に似合わぬ派手さも妙な貫禄も、言われてみればたしかにひかりはスナックのママ然としている。煙草を挟み持つ手指の節には、しっかりと年輪が刻まれていた。
「飲食店はどこも大変な時期だったけどね。『まねき猫』はまだ昼の営業があるから、定食を出してどうにか乗り切ったわ。宮さんにも助けてもらえたしね」
コロナ禍に於ける緊急事態宣言とまん延防止等重点措置により、飲食店の営業時間が短縮され、酒類の提供が禁止、あるいは制限されたことは、まだ記憶に新しい。困難に陥った経営者に向けて各種補助金、助成金の制度が設けられたものの、それでもひかりのように、継続を諦めてしまった店主も多いはずだ。
赤羽という狭いこのエリアの中だけでも、いったいどれだけの店が消えていったのだろう。その数字の中にそれぞれの人生があり、今もめいめい続いている。
「あと四年ほど頑張れば年金が入りはじめるから、倉庫内の軽作業とかで食い繋いでもよかったんだけどね。やっぱり私、賑やかに店をやるのが好きみたい。スナックを閉めてすぐ『まねき猫』の資金繰りに悩まされたりして、感傷的になる暇もなかったわ。だから本当にね、時さんには感謝してるの」
思いがけず、ひかりの年齢を知ってしまった。「あと十年はスナックで頑張るつもりだったのに、コロナのせいで計画丸つぶれよ」と、笑っている。
彼女が苦しんでいたときに、手を差し伸べたのが時次郎だったのだ。
「すみません。私、はじめはひかりさんのこと、父の恋人だと思ってました」
「私が? まさか」
ひかりが口元を歪め、苦笑を洩らす。
今ではもう、分かっている。ひかりは「まねき猫」のことならなんでも知っているが、プライベートスペースである二階には一切立ち入ろうとしない。時次郎名義の通帳や年金手帳の在り処も知らなくて、明日美が汚部屋から発掘しなければならなかった。
「第一印象ですよ。父の歴代の彼女と、雰囲気が似ていたんです」
「ああ、時さんも若いころは、ずいぶん遊んでたらしいもんね。それは、苦労したわね」
「そうですね。女同士の争いに巻き込まれて、怪我をしたこともあります」
「あら大変。あの人、父親としては最低だわね」
時次郎を父に持った苦労を、労われたのははじめてだった。単純だけど、ただそれだけで、救われたような気分になる。明日美は、時次郎のことを知る誰かから、共感してもらいたかったのかもしれない。
「求くんがいたら、『時さんが最低なわけない』って怒りそうですね」
「でしょうね」
先端が真っ赤になるほど煙草を深く吸い込んで、ひかりがふうと息を吐く。それからおもむろに、尋ねてきた。
「求と、なにかあった?」
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