信玄の失敗「長男を自殺に追い込んだこと」

兵の数は、総合力のバロメーターでもあって、たとえば農業を疎かにしてしまうと、兵を食べさせることができないし、そもそも人口が増えない。多くの兵力を動員できる信玄は、それだけ優秀な戦国大名だったと言えます。だから彼の失敗と言ってもそれは、「強いて欠点をあげつらえば」という話になるでしょう。

その意味で、武田信玄の失敗。

『「失敗」の日本史』(本郷和人:著/中公新書ラクレ)

彼のつまずきは、長男である義信に自殺を命じなければならなくなったことだと思います。それは信玄が、今川領を攻めようと考えたために起こった事態でした。

当時、武田と今川、そして北条は、いわゆる三国同盟を結び、お互いに戦わないという「相互不可侵」を合意していました。この同盟が、武田、今川、北条が共栄する基本体制になっていたのです。ところが「桶狭間の戦い」(1560)で織田信長がジャイアントキリングを達成し、今川義元が倒されてしまった。

戦である以上、なにが起こるかはわからない。しかし仮に今川が負けることはあり得たにせよ、まさか大将の義元が戦死してしまう事態は、本当に想定外の番狂わせでした。そのため今川の威信は大きく傷つき、それまで従っていた連中も、動揺する。要するに国の根幹が揺らぎ始めたわけです。

そこで信玄は動揺に乗じ、三国同盟を破棄してでも今川領を攻めようと考えた。そのときも彼は得意の外交を展開しており、その相手が新興勢力の徳川家康です。

家康は今川の武将として扱われていたのですが、桶狭間のあとに岡崎に帰ると、苦労して三河を平定し、独立した戦国大名になっていた。

信玄はその徳川家康と「ともに今川を攻撃しよう。自分は駿河を攻めるから、君は遠江を攻めろ。遠江と駿河で今川の領地を分けようじゃないか」と提案した。そして両者は一度に東と西から侵攻し、今川はたまらず、あっという間に領土を奪われてしまうことになります。

そしてこれを実現するにあたって反対したのが、武田家の跡取りだった武田義信でした。