あらゆる面で秀でていた信玄
武田信玄は、戦国大名として非常に優秀な人でした。彼の優秀さはまず内政能力に見られます。
彼は土木工事ができた。たとえば甲府を流れる釜無川では、21世紀となった今も、彼が築いた信玄堤が有効に機能しています。また法も定めています。「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」という法を定め、きちんとそれに則った政治を行うという姿勢を示している。たとえば同時代の謙信はそうしたことはやっておらず、やはり信玄は優れた政治的手腕の持ち主だったと思います。
軍事にも優れていましたが、外交能力も非常に高い。外交能力の高さは、彼が率いる軍勢の兵隊数が多いところに現れています。たとえば信玄が西に軍隊を移動させたとして、その留守を越後の上杉謙信に攻撃されるとまずい。そこで普通なら、今の松代城、当時の海津城に、ある程度の防衛部隊を配置しておくことになります。
ところが信玄の場合、越中の一向一揆衆と連絡をとって外交を展開し、もし謙信が武田領を攻めようとしたら、その空白を突いて一揆衆が春日山城を攻める状況をつくりました。それで謙信の足止めを行ってから、西に進出していく。結果、防衛にそれほど兵を割かずに、軍事活動を行うことが可能になるわけです。
実際に海津城を任されていたのは春日虎綱という重臣。彼は高坂昌信という名前でも知られていますが、かつての武田信玄の男色相手でもありました。この人が海津城に入り、上杉謙信の襲来に備えていたわけですが、最後に信玄が行った西上作戦では、彼もちゃんと参加しています。信玄の外交が功を奏していたわけです。
ついでに言うと、武田勝頼による「長篠の戦い」(1575)のとき、虎綱は上杉の備えとして海津城を動けなかった。それがために、虎綱はほかの宿将と異なり、長篠で戦死していません。