脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

      

 求の態度がおかしかったことに、ひかりも気づいていたらしい。明日美が帰宅する前から、ぼんやりしていることが多かったそうだ。

「実は――」と、昨日の諍いの顛末を明かす。

 時次郎の介護を巡って、揉めたこと。売り言葉に買い言葉で、自分の親の介護はそれはもう手厚くしてあげるんでしょうねと口走ったこと。そのとたんに求の様子がおかしくなって、帰ってしまったこと。

「なるほどねぇ」

 すべて聞き終えるとひかりは口をへの字にして、二本目の煙草も踏みつぶした。

 求の態度が急変したわけに、心当たりがありそうだ。その必要もないのに明日美は思わず、声をひそめてしまう。

「私、なにかまずいこと言っちゃいましたか?」

「そうねぇ。あの子もまぁ、親子関係がなかなか複雑でね。そのせいで時さんのことを、必要以上に盲信しちゃってんだと思う」

 詳しくは私の口から言えないけどねと、ひかりは首をすくめてみせた。

 個人情報は、勝手に明かせないということだ。そのほうが、信頼できる。

「充分です。やっぱり、親の話題はNGだったんですね」

 地雷がどこにあるのか分かっていれば、踏まずにやり過ごすことができる。さらに詳しく知りたいと思うのは、無責任な好奇心だ。ぐっとこらえて、頷いた。

「そんなに気にしなくっていいわよ。個人の事情に土足で先に踏み込んできたのは、求なんだし」

「それは、そうかもしれませんけど」

 求は時次郎の介護を、明日美がするものと決めつけていた。それを突っぱねたからといって、他人から責められる謂れはない。

「親の介護なんてね、プロに頼れるなら任せちゃったほうがいいのよ。身内がやるとお互いに甘えが出るからね、心理的に近寄りすぎちゃって、追い詰められる。私も寝たきりの父を、ぶっちゃったことがあるわ」

 そう打ち明けるひかりの口ぶりは、乾いていた。なんと返していいのか分からなくて、明日美は「そうなんですね」と頷く。

「お父さんの介護を、されていたんですね」

「父だけじゃなく、母もね。私は遅くにできた一人娘だったから、二十代の前半からよ」

 先に倒れたのは、母親だった。父親は当然のように、女である娘に介護を任せ、ほとんどなにもしなかったという。

「母はまだ『すまないね』って労ってくれたけど、父は古い人間だから、自分が介護される番になっても横柄でね。ちょっとでも至らないところがあると、癇癪を起こすの。早く死んでくれって、毎日のように思ってた。そしてそう思うたび、自己嫌悪に陥るのよ」

 ひかりが三本目の煙草をパッケージから取り出す。手に取ったまま、なかなか火をつけようとはしない。指先で弄びながら、先を続けた。

「立て続けの介護を終えて父を見送ったときにはもう、私は四十近くでね。職歴もろくにない、独身女の出来上がりよ。介護の傍らたまに働いてたスナックにそのまま勤めることになって、五十過ぎで独立したわけ。若いころに漠然と夢見てたことはあった気がするけど、なんかもう忘れちゃった」

 介護なんて、片手間にできるものじゃない。大家族があたりまえだったころならともかく、交替要員がいなければ、人生を投げ打つことになる。ひかりのように貴重な二十代、三十代の時間を奪われると、キャリアを積むことも、家庭を築くこともできないのだ。

「後悔、してますか?」

「たぶんね。父や母にも、申し訳なかったと思う。感情に流されて、ひどい言葉を投げつけちゃったこともあるし。プロに任せてしまったほうが、お互いのQOLのためにもよかったと思う」

 QOL、すなわちクオリティ・オブ・ライフ。生活の質、もしくは人生の質のことだ。

「時さんの場合はたぶん、施設に入れないほど要介護度が低くはないでしょうから、明日美さんが無理をすることはないわ。『まねき猫』のあがりと年金とでなんとかなる施設だってあるでしょ。求がなにか言ってきても、無視しちゃっていいわよ」

 時次郎の介護に時間と神経を削られるなんてごめんだと、思ってきた。同時に、そう思ってしまうことに、罪悪感も抱いていた。