老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

「そう」
 窓の外を眺めていた彗怜が、こちらに向き直る。
「リャンインは、トンヤンシーって知ってる?」
「え、分からない。どう書くの?」
 涼音の問いに彗怜がペンを取り出し、紙ナフキンに「童養媳」と書きつけた。
「読んで字のごとく、子どもを養う嫁って意味。昔……って言っても、それほど昔じゃないけど、中国の田舎では、よくあった風習だよ。まだ十代の女の子に、綺麗な服を着せて、これまで食べたことのないようなすごいご馳走を食べさせて、夢見心地にさせて婚礼を行うんだけど、蓋をあけると、夫は五、六歳の子どもなの。反対に、老人ってこともある。要は、体(てい)のよい人買いだよ。婚礼のときだけ〝恭喜、恭喜〟って思いっ切りちやほやして、その後は一生、嫁いだ家で使用人並みにこき使われるってわけ」
 急に、食べていたスコーンが味気なくなる。
「さすがに今はそこまでのことはないけど、この手のマインドは、結局、廃れてないと思うんだよね。特に、アジアにおいては」
 ティーカップをソーサーに置き、彗怜が眼を据わらせた。
「今の中国は男女平等を提唱しているけど、もともとは二千年以上にわたり、儒教を信奉してきたんだもの。儒学の祖である孔子が説いた三従(さんじゅう)の教えは、『女性は幼いうちは父に、嫁いだら夫に、老いたら子に従え』だよ。加えて七去(しちきょ)の教えっていうのもあって、これはもっと酷い」
 七去の教えとは婚姻後の嫁への規定で、「夫の親に従わない、子を産まない、嫉妬する、ふしだら、悪病を持つ、口数が多い、物を盗む」は離縁に値するというものだという。
「これが中国を中心に、アジアに浸透している二千年のマインドだよ。そりゃあ、建国から七十五年の『男女平等』より、二千年以上の刷り込みのほうが断然強いよね。なんだかんだ言って、今でも、子育てや親の介護は女性が中心でしょう。ときには親戚づきあいまで含めて」
 周囲からの反応に違和感を覚えるたび、結婚は二人だけでするものではないと、母の麻衣子からも、先輩の香織からもたしなめられた。
 そのたびに自分の感覚がおかしいのではないかと不安になったが、どうやらそれだけではなさそうだと、涼音は彗怜の話に耳を傾ける。
「結婚や妊娠を、とにかく〝おめでたいもの〟にしておきたい流れの根底にある意図に気づいてしまうと、猛烈に腹が立ってくる。〝恭喜〟なんて、ただの呪いだよ」
 ちぎったスコーンを口に放り込み、彗怜はティーカップに残っていたアールグレイを一気に飲み干した。
 三従七去ほど酷くなくても、とりあえず男性を代表にしておけばいい世の中では、確かに結婚や妊娠は、どこまでも「おめでたい」のかも分からない。そして、無条件に繰り返される「おめでとう」という祝福の前では、それに対する違和感を口に出すことも憚(はばか)られる。
 涼音自身、「おめでとう」の前で、本当に返したかった言葉を何度も呑み込んだ。 
 フランスの合理的なカップルたちが、本来、同性愛者のために制定されたPACS制度を利用して、どんどん事実婚に乗り出している理由が、なんとなく理解できるような気がしてきた。
 ひょっとするとフランスで出会った彼女や彼たちは、結婚を、二人だけでするものに近づけようと奮闘しているのかもしれない。
「私、達也さんとは、しがらみなく結婚したい」
 気づくと、涼音はそう口にしていた。途端に、胸の内がすっとする。これまで周囲を憚って言葉にできなかった本音を、ようやく吐き出せた気がした。
 もちろん、達也の両親のことは、パートナーの家族として大切にしたい。けれど、達也と結婚することで、〝飛鳥井家の一員〟になりたいとは思わない。
 実の父から〝もらっていただく〟なんて言われたくないし、達也の父からも〝人様の大切な娘さんをいただく〟なんて、思われたくない。
 こんなことを口に出せば、我儘だとか、世間知らずだとか、子どもだとか、謗られてしまうだろうし、「皆があなたの幸せを願っているのに」と、呆れられてしまうに違いない。
 だけど「おめでとう」や「幸せ」を人質に、口封じをされているような状態は、正直こりごりだ。
 後についていくのでも、下から支えるのでもなく、涼音は達也と正面から向かい合って結婚したい。
 あの南仏の美しい夏(レテ)。
 焼きたてのピュイダムールを食べながら、石畳を二人きりで歩いたように、これからも、二人で手を取り合って同じ道を進んでいきたい。
 ピュイダムールの意味は、愛の泉。
 恋愛と結婚は違うと、多くの人は言うけれど、本当にそうだろうか。
 作り置きのできないピュイダムールと同様に、愛は冷めてしまうというのが常套だが、そんなに簡単にあきらめたくはなかった。
「そうしなよ」
 彗怜がにっこりと微笑んだ。
「名前の件も、とことん二人で話し合えばいいよ。リャンインと飛鳥井シェフなら、それができる気がする」
 聡明で博識な彗怜の激励が、涼音の背中を押してくれる。
 スコーンを食べ終え、アフタヌーンティーも終わりかと思った矢先、ふいに最後の皿盛りデザート(アシェットデセール)がテーブルに届けられた。
「当ラウンジ特製のピーチ・メルバでございます」
 旬の白桃を丸々一つ使った美しい特製菓子(スペシャリテ)に、涼音も彗怜も小さく歓声をあげる。
「こちらには、ローズティーがよく合うかと」
 黒服の男性のお薦めに、一も二もなく従った。アフタヌーンティーにデセールがつく構成は珍しいが、こんなサプライズは大歓迎だ。
 イギリスの名門ホテルの料理長が、オーストラリアの歌姫ネリー・メルバに捧げたのが由来とされる、桃にラズベリーソースとバニラアイスを組み合わせたピーチ・メルバは、桜山ホテルの夏季アフタヌーンティーでも人気メニューの一つだが、このバーラウンジのピーチ・メルバは皿盛りデザートなだけに、とにかく桃が大振りで見事だった。
 アフタヌーンティーって、本当にすてき。
 眼にも鮮やかな麗しいメニューの一つ一つに、プランナーやシェフたちのたゆまぬ工夫と努力が込められている。
 いずれは自分たちのパティスリーでも、アフタヌーンティーを提供してみたいと涼音は胸を膨らませた。このラウンジでは三段スタンドを使用せずに、足つきのコンポート皿と平皿で高低差を出していたが、そうした演出も参考になった。
 必要不可欠な食事とは違う、アフタヌーンティー。
 その醍醐味は、日常を離れ、香り高いお茶と甘いお菓子の組み合わせ(マリアージュ)をゆっくりと楽しむ、特別で優雅な時間そのものだ。
 薔薇の香りがする華やかな紅茶と、新鮮な桃を丸ごと使ったデセールを楽しみながら、友との語らいはまだまだ続く。
 暫し浮世の憂さを忘れ、涼音は久しぶりの豪華なアフタヌーンティーを、心ゆくまで堪能した。

第2話「エクレール」に続く

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