〈カラオケdondon〉の奥まった一室。そこは通称〈バイト・クラブ〉のための部室。ここの部員になるための資格は、【高校生の身の上で「暮らし」のためにバイトをしていること】。三四郎はバッティングセンターの常連であるおじいさんと出会う。彼の存在は、またも夏夫の父へと繋がっていく――。

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菅田三四郎(すがたさんしろう) 私立蘭貫(らんかん)学院高校一年生
〈三公(さんこう)バッティングセンター〉アルバイト

 
 どんなバイト先もそうなんだろうけど、バッティングセンターも本当にいろんな人がやってくる。
 ただボールを打つためだけに。
 僕がバイトを始めてからのお客さんで、最年少記録は小学校三年生の女の子。バッティングセンターに年齢制限はないんだけど、たぶん、まともにバットを振って当てられるギリギリぐらいの年齢だと思う。
 でも、その子はものすごく上手だった。きっと小学生の女子野球のチームがあったらすぐにレギュラーになれるぐらいに。お父さんがついていてアドバイスをしていたから、お父さんはきっと野球をやっていた人なんだと思う。
 最高齢は、今日初めて会ったおじいさん。
 常連さんで、三公さんもよく知っている人らしいので訊(き)いたら、八十五歳らしい。すごく上手なお年寄りがいるっていうのは前から聞いていたけど、実際にやってきて打ち出してそれを見たら本当にびっくりした。
 フォームがいいんだ。理想的なフォームではないけど、力感がまったくなくてまるで水に流れるようにバットが出ていってボールを打つようなフォーム。それも、ボールをバットの真っ芯で捉えている。
 まるで武道の達人みたいな感じなんだ。
 三公さんの話では戦前から野球をやっていた人らしいんだけど、戦前って第二次世界大戦のことだよなとか考えて、そんなに長生きしている人があんなふうに百二十キロものボールを軽々と高く打ちあげている。
 どんなふうにしたらあんなふうに打てるのか、全然わからなかった。
「訊いてみたら?」
 三公さんが言った。
「何を?」
「どういうふうにしたらそんなふうに打てるのか。案外腰が悪くてもあの人みたいな打ち方なら負担にならないかも」
 どうなんだろう。あの打ち方は腰に負担かからないんだろうか。
「うん、ちょうど終わったから訊いてあげよう」
 そう言って三公さんがすたすたとケージに向かって、ちょうど終わったおじいさんに話をし始めた。
 僕を指差して話をしているから、きっと僕は腰をヘルニアでやってしまったんだけど、どうなんだろうって。そんな腰でも打てるもんだろうか、とか。
 正直、もう野球は終わりにしたんだから打てなくてもいいんだけど。
 でも、確かにここでバッティングぐらいはできるようになるんだったら、バイトのためにもいいかもしれない。マシンの調子を見るために試し打ちとかすることもあるから。
 おじいさんは、ニコニコしながらケージを出てきた。
「若いのになぁ。ヘルニアかぁ」
「そうなんです」
 お年寄りの年齢なんて見た目では全然わからないけど、少なくともこのおじいさん、八十五歳には全然見えない。もっと若く見える。
「まぁスポーツ医学に強い医者なんかに訊くのがいちばんなんだがなぁ。私もヘルニアやったよ、一回」
「あ、そうなんですね」
「素人(しろうと)のやり方だけどなぁ。普通のバッティングをすると、腕を振ると同時に身体も回転してそれを腰で直接身体に伝えて支えるようにすると、腰に来るんだ。そうだよなぁ?」
「そうですね」
 その通りだと思う。身体の回転を伝えてなおかつ支えるのは腰だ。だから、腰をやってしまうと何もできなくなってしまう。
「だからな」
 その場でバットを構えるようにして、一度振った。
「あ」
 思わず声を出したら、おじいさんがニカッと笑った。
「野球やっとったならわかるだろう? 腕の振りから来る身体の回転を腰で支えるんじゃなくて、膝(ひざ)と足首で回転を吸収して、体全体が回転ドアになったようにして打つんだ」
 わかる。
「今までの自分のフォームとはまるで変わっちまうがな。別に野球の試合をするんじゃないからな。ただボールを打つだけなら、これで充分。打てれば、気持ちいい。ただそれだけのもんだからな」
「ありがとうございます」
 確かにそうだ。バッティングセンターでは別にヒットやホームランを狙うんじゃない。ただ、バットにボールを当てて前に飛ばせばいいんだ。
「あとは、筋肉だな。腹の脇の筋肉。ここな」
 僕のお腹の横を触る。
「ここを鍛(きた)える。ここなら別に腹筋とかやる必要はないからな。重いもの持って、左右に身体を倒すだけでここを鍛えられる。ほれ、こんなふうに」
 おじいさんが、そこにあったボールが入ったバケツを両手に持ってゆっくり左右に揺れる。
「やったことあります」
「うん、これなら腰に負担はほとんどかからんで、脇腹の筋肉を鍛えられるからな。まぁ自分の身体に訊きながら、いろいろやってみる。あとは一度は野球やって身体を鍛えたんなら、自分で自分の身体に訊くのがいちばん」
「今度やってみます」
 おじいさんは頷いて、ぽんぽん、って僕の腰を叩いて帰っていった。
「できそうか?」
三公さんが言う。
「できます」
 ちょっとその場でやってみる。
 うん、できる。
 スパイクも履かないから、回転をそのまま足首に伝えて回転ドアみたいに回ることもできる。
 確かにこの打ち方なら、おじいさんの言ってたように脇腹の筋肉を鍛えた方がいいかな。腕の振りの力を使わない分、身体の回転で補うから。
「バイト終わる頃にちょっと打ってみてもいいよ。できるようだったら、趣味にしてもいいだろ? 野球好きなんだし」
「そうですね」
 やってみよう。できないと思っていたことができるかもしれないのは、ちょっと嬉しい。おじいさんが出ていった方を見る。
「あのおじいさん、お仕事って何をやっていたんですか?」
 八十五歳であんなに身体が動くってけっこうスゴイと思うんだけど。
 三公さんが、ちょっと苦笑いみたいな顔をした。
「お仕事なぁ」
 首を捻る。
「まぁもう引退というか、何にもしていないただのおじいちゃんなんだけどな」
「何ですか?」
 ものすごく含みのあるような言い方。
「まぁあれだ。その昔はヤクザの親分みたいな人だったらしいぞ」
「親分?」
 ヤクザの?
「そんな感じの人だな。どんな暮らし方をしてるとかはまったく知らないけど、週に一回はここに来てボール打ってる。今は、ただの野球好きのおじいさんだよ」
 そんな人だったのか。
 じゃあ、夏夫(なつお)くんのお父さんなんかも知ってるような人なんだろうか。
 
    *
 
 今日は誰も来ていないだろうけれど〈バイト・クラブ〉に寄ってみようって思った。
 塚原(つかはら)先生に聞いた話を、夏夫くんにきちんと伝えようと思って。皆が集まったときに話してもきっと夏夫くんはかまわないって言うだろうけど、やっぱりまずは夏夫くんだけに話してからの方がいいだろうから。
 由希美(ゆきみ)は今日は〈花の店 マーガレット〉のバイトはなくて、もう帰っているから家に電話しておいた。
 夏夫くんに、塚原先生に聞いたお母さんの話をするから〈バイト・クラブ〉に寄っていくからって。別にいちいち電話しなくてもいいんだけど、わりとそういうの気にする女の子だから。一緒に〈バイト・クラブ〉に行こうって誘ったのも僕だし。
 
〈カラオケdondon〉に入ったら、カウンターの中にいた夏夫くんが、おう、って笑顔を見せる。
「一人か?」
「一人」
「由希美ちゃんは?」
「今日はバイトないからもう帰ってる。忙しいの?」
「ちょっとな。もう少ししたら落ち着くと思うけど」
 もちろんそれぞれのカラオケの部屋はきちんと防音されているけれど、部屋が満室になっているときにはなんとなくわかる。ビル全体がざわざわしている感じがするんだ。
「塚原先生に聞いてきたから。お母さんのこと。ちょっと話そうと思って」
「そっか。サンキュ。待っててくれ。後で行く」
「うん」
 階段で二階に上がる。
〈カラオケdondon〉の七号室は、けっこう広いんだ。カラオケだけするんだったら十人ぐらい入っても大丈夫だと思う。
 そしてテーブルも大きい。たとえば、今のところそういう人はいないけれど、大きな紙を広げて絵を描いたり、あるいはたくさんの人でノートや教科書を広げて勉強したりするのにも充分なぐらいの大きさがあるんだ。
 恩送りなんだな、って父さんが言っていた。〈バイト・クラブ〉の話をしたときに。
 情けは人の為ならず、っていう言葉もある。昔から、日本だけじゃなくて世界中にある考え方だって。
 言うのは簡単だけど、実際にやるのは難しい。中々できるものじゃない。筧(かけい)さんは、すごい人だなって父さんは言ってる。
 将来はどうするんだってことを考えることが多くなった。高校生になったからっていうのもあるけど、やっぱり父さんの会社が倒産したっていうのも、大きい。
 自分はどんな仕事をして将来生きていくんだろうって。
 そういうのを決めるときに、やっぱり周りの環境っていうのも大きいよなって話も、ここで皆とした。
 〈バイト・クラブ〉はたった五人しかいないけど、五人とも環境がそれぞれに違う。好きなことも、違う。共通しているのは高校生でバイトをしているっていうことだけ。
 でも、そういう環境にいるから、将来のことをすごく考えるようになった、っていうのも共通しているよなって話もした。
 できることと、できないこと。好きなことと、嫌いなこと。
 世の中にはどんな仕事があって、どんなふうに考えてその人たちは働いているのか。
 尾道(おのみち)さんが言っていた。『働くってことは、生きることだ』って。だから、将来どんな仕事をすればいいのかを考えることは、どうやって生きていくのか、を考えることなんだって。
 なるほどなって思った。
 確かに、生きていくためには働いてお金を稼がなきゃならないんだ。そうしなきゃ生きていけない。
 だから、将来を決めるっていうのは、どうやって生きていくかを考えること。ただ、それは決めたらずっとそれでいなきゃならないってことじゃない。
 自分がどういう生き方をすればいいかなんて、正直今もわからないって尾道さんも言っていた。
 だから、そのときそのときで自分が決めたことをきちんと守っていけばいい。後で変わったってかまわない。
 人間なんて、誰でも迷いながら生きていくんだからって。
 

 

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