好きなフォーレの『レクイエム』を聴けなくなった

フォーレは好きな作曲家の一人だ。あの清澄で心洗われるような『レクイエム』をはじめ、歌曲や室内楽にはしっとりとして内面的な美しい曲がたくさんある。

以前は、フォーレを平気で聴いていた。大学に通う車の中でも聴くことがあった。

『凡人のためのあっぱれな最期』(樋口裕一著/幻冬舎)

ところが、妻の死後、フォーレを聴くとなんだか悲しみの中に沈潜(ちんせん)してしまう気がする。フォーレの内面的な音楽の中の悲しみの部分に、そして自分自身の悲しみの核心に触れているような気がする。暗い気持ちになり、悲しみから逃れられなくなる。フォーレを聴くごとにそんな気持ちになるので、しばらくフォーレを聴くのをやめている時期があった。

そのような日々、私はあの疑問、なぜ妻はあっぱれな最期を迎えることができたのかという疑問をずっと抱き続けていた。

妻はあっぱれな最期を迎えた。息子も娘も、妻の腹の据わった態度、少しも死に動じない態度には驚嘆していた。なぜ妻はあれほどあっぱれな最期を迎えられたのだろう。

死に動じず、恬淡として死を迎え入れる……。そんな人物の話を聞くことがある。だが、少なくとも私の知る限り、そのような人物は人生を達観した人、悟りとまではいかないにせよ、それに近い境地にいる人だった。少なくとも、何らかの人格者であり、煩悩から離れた人だった。

だが、妻はそのような人間ではなかった。