信玄と勝頼の違い

参加者からの「なぜ終焉がこの地になったのか?」という質問に対し、先生は武田の菩提寺である天目山栖雲寺が近くにあったからでは、とおっしゃっていました。

かつて幕府から追討された信玄と勝頼の祖先・13代当主の武田信満も、実はこの天目山で自害。その栖雲寺に葬られているそうです。

また小山田信茂は裏切り者として悪名高いけれど、もともと甲斐は穴山や小山田ら領主が強い力を持っていた国で、状況を考えれば、武田を切り捨てても決しておかしくはない、といった説明もありました。「もし岩櫃城までたどり着けたとしても、あの真田昌幸が本当に受け入れたかな…」とも。

三人の遺骸を葬ったとされる地蔵尊。参加された方々がみな自然に手を合わせていたのが印象的でした(写真:婦人公論.jp編集部)

墓の周囲には三人が自刃したとされるそれぞれの生害石、さらに三人の遺骸を葬ったとされる地蔵尊なども。なお信勝は当時16歳。北条氏康の娘でもあった北条夫人は、まだ19歳だったと言われています。

甲斐武田家の繁栄から、終焉まで見届けた我々一行。各所ではみな、自然と手を合わせていました。

ここで先生からツアー全体の総括がなされました。

「領地をどんどん広げていた武田であれば、より石高が高かったり、戦いやすい拠点に移ることも可能だったはず。でもしなかった。それは信玄堤に象徴されるように、彼らがこの地や領民を愛していたことの表れのような気がします」

景徳院の静寂な森を前に、旅を総括する先生(写真:婦人公論.jp編集部)

さらに先生は続けます。

「信玄は偉大だけど、凡庸な勝頼が武田を滅ぼした、といった言われ方をしがち。でも、はたしてそうなのか。その足跡をたどって、あらためて二人の評価の差は、ちょっとした積み重ねの違いに過ぎないと感じました。所詮人ひとりは、ちっぽけな存在です。現代を生きる私たちは、ちっぽけ、ということを自覚しながら、ニコニコと楽しく毎日を送れたら、それでいいんじゃないかな」

以上「武田」をテーマとした今回の旅も、学びが多いものになりました。

帰宅後にホッと一息つきながら食す信玄餅の美味しさに、あらためて現代に生きる幸せを感じたり(写真:婦人公論.jp編集部)

参加された方々と関係者のみなさん、そして先生、本当にお疲れさまでした。また楽しい旅をご一緒させていただく日を心より楽しみにしております。

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「失敗」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

出版業界で続く「日本史」ブーム。書籍も数多く刊行され、今や書店の一角を占めるまでに。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if"を展開。失敗の中にこそ、豊かな"学び"はある!