老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 面白い話をして笑わせてくれる、見てくれのいい男なら、パリピ仲間にもごまんといる。だけど、ほとんどの場合、彼らは非正規か、下手をすれば無職だった。中には、正規社員である瑠璃に、平気でたかろうとする男もいた。
 あんな駄目男たちにかかずらうほど、私はバカじゃない。
 結婚は契約だ。
 楽しいだけの恋心や、不確かな愛情が歳月と共に廃(すた)れたり潰(つい)えたりすることを、瑠璃は周囲の情報からも、自らの恋愛経験からも知っていた。
 私は別に、スズさんと飛鳥井シェフみたいに、同じ目標を持つ恋愛なんてしたことも、する予定もないんだしね――。
 希望も理想も選択肢もない私。だけど、ドライなまでの割り切りはある。
 だったらそれを武器に、現時点で最高の条件である結婚を勝ち取るしかない。
 自分の母親や周囲を見ていても、結婚後の夫の比重はそれほど大きくない。経済面での安定さえ保証してくれれば、子育てだって、心身の充実だって、夫の力など借りずに完遂する自信が瑠璃にはあった。
 そこは、〝パリピで陽キャの瑠璃ちゃん〟だもの。
 社交と美容とショッピングに精を出す駐妻なんてやらせたら、右に出るものはいないと思う。多分。
「こんなところきて、ジュースとか飲んで、なにが楽しいのかね」
 ふいに敬一が発した言葉に、自分の思いにふけっていた瑠璃は、はたと我に返った。
 口元に意地の悪い笑みを浮かべ、敬一が斜め横の女性同士のテーブルを眺めている。グレープフルーツジュースとブラッドオレンジジュースで乾杯し、三十代と思しき二人の女性が楽しそうに食事をしていた。
「ここは、一応、都内ではワインリストがそろってる店なんだ。酒が飲めないなら、わざわざくんなっつーの」
 ふんと、小馬鹿にしたように、敬一は鼻を鳴らす。
 けれど、彼女たちが食べている平目のカルパッチョやマッシュルームのアヒージョが美味しそうで、瑠璃は一瞬、羨望を覚えた。
 なにより、彼女たちは本当に楽しげに会話に花を咲かせていた。
「女同士でつるんじゃって、みじめだね」
 なおも敬一が言い募る。
 うるせえ、とっちゃん坊や。
 本人たちが楽しければ、それでいいじゃないか。眼の前の女を楽しませる会話もできないお前が、他人(ひと)のことをとやかく言うな。
 喉元まで出かかった言葉を呑み込み、瑠璃は小首を傾げて曖昧に笑ってみせた。
「あ、それで、今月末なんだけど」
 瑠璃の葛藤にはまったく気づかず、敬一が真顔になってこちらを見る。
「親父とおふくろが別荘でホームパーティーを開くから、そこに瑠璃もこないかって」
 訪ねるのが、真鶴(まなづる)の高台にある別荘と聞き、瑠璃の心臓がとくんと跳ねた。
 別荘――。
 未だに両親と下町の狭いマンションで暮らしている瑠璃は、景勝地の別荘なんていったことがない。
「別荘っていっても、親父が引退してから、二人はほとんどあっちに住んでるんだ。向こうのほうが気候がいいから。あそこを終(つい)の棲家にするつもりなんじゃないかな。まあ、どうでもいいんだけど」
 あくびまじりに告げられた言葉に、瑠璃は密かにほくそ笑む。
 よいではないか。自立したご両親。
 義父母が真鶴に永住してくれるなら、シンガポールから帰ってきて東京で暮らすことになっても、同居はない。
 敬一が一人息子であることが少々気にかかっていたが、問題はあっさりと解決してくれそうだ。
 テーブルの下で、瑠璃はぐっと拳を握る。
「お待たせいたしました」
 そこへ、スタッフが大皿を持って現れた。
 げっ……。
 テーブルにサーブされた大盛りのイカ墨パスタに、瑠璃は思わず眉を顰める。
 こんなの、食べられるわけないじゃん。
 イカ墨独特の香りと、大蒜の強い香りが入り混じり、確かに美味しそうだが、四回目のデートで頼むようなメニューではない。
 瑠璃のためらいをよそに、敬一は自分の皿にイカ墨パスタを盛ると、豪快に食べ始めた。その口元が、瞬く間に黒く汚れる。
 これは一口も食べられそうにないと、瑠璃は桜色のルージュで彩った唇をナフキンで軽く押さえた。
「普通にうまいけど、やっぱ、ヴェネチアで食ったネーロにはかなわないな」
 一人でパスタを食べながら、敬一がうそぶく。「ネーロ」とはイタリア語の「黒」で、イカ墨パスタの名称だったはずだ。
 はいはい、本場が一番ってやつですね……。
 カスハラジジイと同じようなことを宣(のたま)う敬一を、瑠璃は白けた思いで眺めた。その視線に気づいたのか、敬一がぴたりと食べるのをやめる。
「ねえ、瑠璃。この後、時間あるなら、少し静かなところにいこうか」
 静かなところというのが、レストランに隣接したホテルのバーであることに気づき、瑠璃は呆れた。
 お坊ちゃん臭くても、そういう欲望は〝普通に〟あるらしい。
「ごめんなさぁい。明日も仕事早いんでぇ」
 小首を傾げながら、しかし、瑠璃はきっぱりと断った。結婚を前提に付き合っているのだから、その覚悟がないわけではない。だとしても。
 大蒜臭いお歯黒で、人を口説いてんじゃねえよ。
 好条件なのに、この男が売れ残っていた理由がよく分かる。
 期待と失望がせめぎ合う胸の裡(うち)で、瑠璃は大きく溜め息をついた。

 

 翌週の休日、瑠璃は涼音と一緒に、地元の問屋街を回っていた。新店舗のカトラリーを買いつけたいという涼音のために、案内役を買って出たのだ。
 問屋街近くの下町で暮らしながら、瑠璃自身はなにかを買いつけたことはなかったけれど、店の評判や、入り組んだ路地の歩き方なら、ある程度の既知があった。
 カトラリーの他に、涼音はヴィンテージ硝子のグラスや、花瓶にも使えそうな大型のジャーなどを購入し、発送手続きを行っていた。
「ねえ、瑠璃ちゃん。あそこで一休みしようか」
 一通り買い物の目途がついたところで、涼音がジェラート店を指さす。
「さっすが、スズさん。あそこ、美味しいんですよ」
 この日も、朝から大変な暑さで、瑠璃も喉がカラカラだった。
「ごめんね、瑠璃ちゃん。せっかくのお休みなのに、暑い中つき合わせちゃって」
「いや、いいっすよ。休みっていっても、どうせ、やることありませんし」
 ホテル勤めの悲しさで、土日祝日が休めない瑠璃は、パリピ仲間たちと会うこともできず、休日を持て余してしまうことが多い。こうして気心の知れた人を相手に、地元の案内でもしているほうが、余程気分転換になった。
「今日は、私におごらせてね」
「えー、悪いっすねー。ランチもご馳走になったのに」
「全然、全然」
 話しながら、色とりどりのジェラートが並ぶショーケースをのぞきこんだ。
「わあ、種類が一杯ある」
「美味しそうっすねー」
 定番のミルク、チョコレート、ナッツ系から、苺、オレンジ、レモン等のフルーツ系、トマト、アスパラ、枝豆等の野菜系までがずらりとそろっている。
 瑠璃はキウイとオレンジ、涼音はレモンとジンジャーハニーのジェラートをそれぞれ選び、窓側の席に着いた。
「瑠璃ちゃんの、グリーンとオレンジですごく綺麗」
 瑠璃のカップに盛られたジェラートを、涼音が指さす。
「今、ラウンジのトロピカルアフタヌーンティーのスペシャリテが、セミフレッドなんすよ。山崎さんのは、キウイとマンゴーなんですけど。色合いが綺麗で、それに影響されたのかもしれません」
「セミフレッドか。いいね」
「スズさん、一口ずつ交換しません?」
「あ、いいね!」
 一匙ずつ交換し合ったジェラートは、どれも素材の味が生きていて、瑞々しく美味しかった。

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