老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

「香織さんと山崎シェフ、その後、どう?」
 レモンのジェラートを口に運びながら、涼音が少し心配そうに尋ねてくる。
「あー、相変わらずって感じですねぇ」
 瑠璃は眉を顰めた。
「来月、また、カスハラジジイの予約が入ってるんですよ」
「えー」
「なにごともないといいんですけどねぇ」
「そうだねぇ……」
 なんとなく会話が途切れ、瑠璃は窓の外を見た。立ち並ぶマンションの向こうには巨大な入道雲が湧き、街路樹からはシーシーと蝉の声が降ってくる。そろそろ五時になろうとしているが、夏の夕暮れはまだまだ明るい。
「セミフレッドってね、実は婚姻によって広がったお菓子なんだよ」
 ふいに涼音が話し始めた。
「セミフレッドって、確かジェラートやアイスクリームの原型っすよね」
 瑠璃は自分のカップを指し示す。
「そう。そのセミフレッドは、元々、イタリアのフィレンツェの大富豪で、実質的な支配者だったメディチ家のために作られたお菓子だったの」
 その大富豪の娘、カトリーヌ・ド・メディシスが十六世紀中ごろに、後のフランス王、アンリ二世となるオルレアン公に嫁いだとき、大勢の料理人や菓子職人たちを率いてきた。
 そのときフランスに持ち込まれたセミフレッドがやがてはジェラートに、そしてカトリーヌの孫のアンリエット・マリーがイングランド王チャールズ一世に嫁いだ際に、イギリスにもアイスクリームとして伝わっていったのだという。
「カトリーヌの婚姻によって、ヨーロッパ全土に広がっていったお菓子って、結構たくさんあるんだよ。フロランタン、マカロン、フィナンシェ……」
 涼音が指折って数えてみせた。
「どれも、定番のお菓子じゃないすか」
 瑠璃は眼を丸くする。
 今では定番となっているお菓子が、たった一人の大富豪の娘の輿入れと共にヨーロッパ全土に広がっていったとは。
 たかが結婚、されど結婚だ。
「銀食器を代表とする、お洒落なカトラリーの使い方をフランス社交界に広めたのも、カトリーヌだって言われてるんだよね。つまりは、カトリーヌがいなかったら、今日わたしたちが見て回ったすてきなカトラリーが、日本に伝わったかも怪しいってわけ」
「すげーな、富豪の娘」
 明け透けな瑠璃の物言いに、涼音が吹き出す。涼音があまり楽しそうに笑うので、瑠璃までが可笑しくなった。
 しかし、結婚といえば――。
「そう言えばスズさん、あれ、どうなりました?」 
 ひとしきり笑い合った後、瑠璃は切り出してみる。
「あれって?」
「あれですよ、あれ。夫婦同姓がどうとかっていう」
 先月の送別会の席で、涼音が「婚姻後の夫婦の氏」を強制的にどちらか一方に決めなければいけなくなるのはなぜかと、急に〝フェミの人〟みたいなことを言い出したことを、瑠璃は思い返していた。
「ああ……」
 涼音がふと顔を曇らせる。
「ねえ、瑠璃ちゃん」
 改まったように、涼音は瑠璃を見た。
「夫婦同姓が法律で義務付けられているのって、世界で日本だけだって知ってた?」
「はあ? マジすか」
 瑠璃は再び仰天する。
 そんなことは、今の今まで考えたことがなかった。日本がそうなのだから、世界的にもそうなのだろうと、当たり前のように思い込んでいた。
「この間、彗怜から聞いて、私も初めて知ったんだけど」
「あー、ウーさんだったら、そういうこと詳しそうですね」
 日本語も英語も堪能な呉彗怜のすらりとした容姿が脳裏に浮かんだ。いかにも切れ者という才気走った女性だった。彼女は確か、現在は外資系ホテルのラウンジでチーフを務めているはずだ。
「それで、私もその後色々と調べてみたんだけれど、導入が遅かったフィリピンでも、九〇年代には選択制を実現してるんだよね」
 フィリピンの選択的夫婦別姓の実現以降、夫婦同姓にこだわっているのは、本当に世界で日本だけになってしまったのだそうだ。
「今はほとんどの女性が仕事を持っているわけだし、そうなると、途中で姓が変わることに不都合が起きることが多くて、それを是正するっていうのが、世界的な動向みたい」
 涼音が淡々と説明する。
 それじゃあ……。
 夫婦同姓を不思議に思うのは、別段〝フェミの人〟に限った話ではないということなのか。
 ジェラートの最後の一口を食べ終え、瑠璃は思わずぽかんとした。
 以前、涼音にも伝えたように、瑠璃自身は、自分の姓を変えることに少しも抵抗がない。敬一と結婚するなら、清瀬に改姓することになるわけだが、林瑠璃より清瀬瑠璃のほうが、字面も響きも良いのではないかとさえ考えている。 
 ただ、以前、結婚した友人が、改姓の手続きの煩雑さに頭がおかしくなりかけたとぼやいていたことは、記憶に残っていた。
 パスポートや免許証や保険証の他に、銀行のカード、携帯電話(スマートフォン)、クレジットカード、病院の診察券、各種会員証まで全部修正しなければならなくなったと聞かされた。
 瑠璃はパスポートも免許も持っていなかったが、「結局、なんだかんだ色々出てくるんだって」と強調されて、成程面倒そうだと思ったことは覚えている。
 とは言え、それが結婚するということなのだから仕方がないとも感じていた。
「それで、飛鳥井シェフには、そのこと話したんですか」
 空のカップを弄びながら、瑠璃は尋ねてみる。
 今更、そんなことを持ち出すべきではない。相手の家族の印象も悪くなるし、結婚は二人だけでするものではないのだからと、香織は言っていたが。
「うん、一応」
 しかし、涼音がそれを伝えずにはいられない性分であることも、瑠璃はなんとなく理解している。
「で、飛鳥井シェフは?」
「それがねー……」
 珍しく言葉を濁し、涼音が遠くに視線をやった。つられて、瑠璃も窓の外を眺める。
 先ほどまで、かんかんに日が照っていたが、今は空に雲が広がり始めていた。堆(うずたか)い積乱雲が、崩れているようにも思われた。 
 遠くでごろごろと鈍い雷鳴が響いている。
 やばい、一雨くるのかな。
 そんなことをぼんやり考えていると、長らく言葉を探していた涼音がようやく口を開いた。

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