老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

「実はね、私が『婚姻後の夫婦の氏』について話したとき、達也さんは全然ぴんときてないみたいだった」
 要するに、瑠璃同様、女性が改姓することを〝当たり前〟と考えていたということだろう。
「そりゃそうだよね。婚姻届を書くまで、私だってぴんときてなかったんだから」
 涼音はきまり悪そうに苦笑する。
 それでも達也は、涼音の話に真剣に耳を傾けてくれたそうだ。そして、一通りを聞き終わると、落ち着きはらい、おもむろに問いかけてきたという。
〝それじゃ、涼音は俺に婿養子になって欲しいってこと?〟と――。
「そういうことじゃないんだけどなぁ」
 もどかしそうに、涼音が首を横に振る。
 しかし、日本で結婚後の女性の姓を残そうとすれば「妻氏婚(つまうじこん)」となり、それは多くの場合、改姓する男性が「婿養子」ととらえられてしまうらしい。
「本当は、妻氏婚イコール婿養子ではないんだけどね。戸籍筆頭者が妻でも、世帯主が夫ってことのほうが多いみたいだし」
「なんすか? 戸籍筆頭者と世帯主って」
「両方家族の代表的な人ってことかな? でも、戸籍筆頭者には、原則、改姓した人はなれないの」
「それじゃ、戸籍筆頭者が妻で、世帯主が夫の場合、どっちが本当の代表になるんですか」
「世帯主……じゃないのかな。戸籍筆頭者は、戸籍の最初に記載されるだけで、法律的な権利はないみたいだから」
「妻氏婚」をしていても、世帯主が夫の場合、家族の代表は夫になるのだと、涼音が説明する。
 聞けば聞くほど、瑠璃にはちんぷんかんぷんだった。
 だが、涼音のように疑問に思ってつきつめて考えなければ、全ての代表は、当然のように男性である「夫」になるということだ。両親や友人を含め、この世のほとんどの人たちは、そうやって夫を代表にして結婚してきたということになる。
 もっとも、それはそれでいいのではないかという思いも、瑠璃にはあった。
 私は別に「フェミの人」ではないのだし……。
 面倒なことは、全部男に任せておけばいい。所詮、この世の中は、男中心にできているのだから。
 そう考えた瞬間、いつも一人で勝手にメニューを決めてしまう敬一の様子が脳裏をよぎった。
 不快ではあるけれど、「まあ、いっか」と割り切った。
 まあ、いっか。
 だけど、そうやって何度も眼をつぶっていくうちに、いつしか、本当に大切なものを、当たり前のように見過ごしてしまうことが起こりうるのではあるまいか。 
 いや、もう、とっくに起きてたりして――。
 瑠璃は初めてそんなことを、ぼんやりと考えた。
「私、達也さんに遠山姓になってもらいたいわけじゃないの」
 透き通ったレモンのジェラートを口に運び、涼音が眉根を寄せる。
「でも、そう言ったら、じゃあ、一体どうしたいわけ? って、聞かれちゃって……」
 涼音の声が詰まった。
〝だったら、俺たち結婚できないじゃない〟
 仕舞いには、冷たくそう言われてしまったそうだ。
 悄然と肩を落とす涼音を前に、瑠璃はかける言葉を失った。
 確かに、選択的夫婦別姓を実現できていない日本は、世界的に見ても遅れているのかもしれないが、今現在、この国では夫婦同姓は法律で義務付けられた約束事なのだ。
 そのきまりを遵守できない限り、日本での結婚はできない。
 合理的な飛鳥井シェフのことだ。そう答えるのは想像に難くない。
「私は、ただ、一緒に考えて欲しかっただけなんだけど」
 ジェラートを食べ終えた涼音は、伏し目がちになって頬杖をついた。
「開店準備でただでさえ忙しい時期に余計なこと言っちゃったみたいで、それ以来、なんか、ぎくしゃくしちゃってるんだよね」
 溜め息混じりの呟きを聞きながら、一緒に考えることなど、端(はな)から無理そうな男との結婚に挑もうとしている己のことを、瑠璃は胸の奥底で思いあぐねた。
 自分の婚活の危うさに比べれば、たかだか「夫婦同姓」なんて、贅沢な悩みではないか。
 なんといっても涼音の相手は、世界的にも名の知られるパティシエ、タツヤ・アスカイなのだから……。
「元気出してくださいよ、スズさん」
 胸の裡に広がった黒いものを抑え込もうと、瑠璃はできるだけ明るい声を出した。
「そう言えば、今日、スズさんに会うって話したら、山崎さんがエクレールをお土産に持たせてくれたんですよ。うちの冷蔵庫で冷えてますから、帰りにピックアップしてってください」
 それを聞いて、涼音がぱっと顔を上げた。
「わあ、山崎シェフのエクレール、懐かしい。だったら、私も実家に寄って帰ろうかな。うちのおじいちゃん、山崎シェフのエクレール大好きだから」
 その表情から沈鬱な影が消えている。きらきらとした瞳を見返しながら、本当にお菓子が好きな人なのだなと、瑠璃は微かな感嘆を覚えた。
 好きなものがある人って、羨ましい。
 心から大好きだと思えるもの。これさえあれば大丈夫だと思えるもの。
 そんなものが、果たして自分にはあるだろうか。
 瑠璃がつくづくと考えたとき、ふいに周囲がぴかっと白く光った。暫しの間を置いて、巨大なものが砕け割れるような轟音が響き渡る。
「ひゃあっ」
 瑠璃は思わず悲鳴をあげた。
 瞬く間に空がかき曇り、大粒の雨がぼたぼたと降り始める。もう一度雷鳴がとどろいたときには、バケツをひっくり返したような大雨になっていた。
 最近の夏ではおなじみの、ゲリラ豪雨というやつだ。
 表を歩いていた人たちも、ばたばたと走り出す。何人かは、店の中に避難してきた。
「これは、しばらく出られそうにないね」
 涼音も驚いたように外を見る。
「追加で飲み物頼んで、少し雨宿りしよう。私はホットのカフェオレにしようかな。瑠璃ちゃんは、なんにする?」
 腰を浮かして、涼音が尋ねてきた。
「あ、じゃあ、ここは自分が……」
「いいって、いいって。エクレールもいただくんだし、最後までご馳走させて」
「それじゃ、自分もホットのカフェオレで」
「オッケー」
 涼音が席を立とうとした瞬間、街路樹の向こうの空に、はっきりとジグザグの稲妻が走った。数秒後、凄まじい轟音が鳴り響く。
「おっそろしー!」
 瑠璃も涼音も同時に身をすくませた。
 あまりに凄まじくて、なんだか笑えてきてしまう。
「ねえ、瑠璃ちゃん、知ってる?」
 まだくすくすと笑いながら、涼音が問いかけてくる。
「エクレールって、フランス語で雷っていう意味なんだよ」
「マジすか」
 瑠璃は眼をしばたたかせた。
 シュー・ア・ラ・クレームは、クリームを入れたキャベツという意味で、それはふっくらとした形状から理解できるのだけれど、同じくシュー生地とカスタードクリームのお菓子に、なぜ、「雷」などと言う名前がつけられたのだろう。
「それには諸説あって、焼いた表面にできる割れ目が稲妻に似てるからというものや、チョコレートのアイシングがきらきら光るからというものや、あまりに美味しくて、稲妻のようにあっという間に食べてしまうからというものまであるの」
 どの説をとるかはその人次第なのだと、涼音は微笑んだ。
「私だったら、最後の説をとるかな?」
 そう言って、軽やかな足取りで注文に向かう涼音の後ろ姿を、瑠璃はじっと見つめる。
 涼音は、お菓子の歴史や雑学をよく知っている。
 ただ、好きなだけじゃない。こだわって勉強している。努力をしているのだ。
 楽しいだけのパリピ仲間たちと、遊びほうけている自分とは違う。
 回り道にも意味はあるという達也の言葉が、再びふっと心にのぼる。
 だけど、自分は涼音にはなれない。
 要領のよさと、割り切りの早さを武器に、近道をいくしかないのだと、自分自身を納得させるように、瑠璃は何度も心に繰り返した。

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