「子どもを置いて帰れ」と

美波里さんは、アメリカ人のおとうさんと日本人のおかあさんの間に生まれたわけですが、当時はいじめられたりしなかったのですか?

前田 私は、まったく意地悪されたことがなかったんですよ。鎌倉に住んでいる母方の祖父母のもとで育ったんですけどね。とても大切に育てられたの。祖父母は、当時、ハーフに生まれた私が非難されないようにと、聖ミカエル学園という三井財閥の令嬢のために創立されたお嬢さん学校に通わせてくれたのね。そこは、米軍の将校のお嬢さんたちも通っていたし、ハーフの子どもも多かったし、みんなおっとりしていました。途中で親御さんのお国に帰ってしまった仲良しもいて、つらい別れも経験したけれど、意地悪をされた経験がないまま、バレエが大好きな少女時代を送りました。

ただ、祖父母のしつけはとても厳しいものでしたよ。箸の上げ下ろしから、行儀作法、立ち振る舞いなどはとても厳しくて、私は祖父がとても怖かった。明治の人ですからね。その分、祖母は物静かで楚々として、凛としていましたね。祖父は最初、母が私を産んだときには親子とも家に入れないと言ってたらしいんです。でも、母が私を抱いて連れてきたらその場で「子どもを置いて帰れ」と…。それから私を愛情こめて育ててくれました。

生駒 そうですか…。いいなあ。楽しい小学校時代を送られたんですね。

前田 祖父母は厳しいことは厳しかったけれど、私を山に連れていっては、野に咲く花の名前を教えてくれたり、海に行けば地引網を教えてくれたりしましたね。

生駒 それって、まさに『西の魔女が死んだ』のおばあちゃんそのものですね。