文学サロンを開設していた形跡がない

さて、式子は二条・六条・高倉三代の天皇の斎院として奉仕し、嘉応元年(1169)に、病のため退任した。時に21歳なので、その頃までには皇族としての一応の教養は積んでいたと思われる。

そして彼女は特に和歌の才能に恵まれていた。彼女にとっても幸運は、おそらくその頃までに生涯の歌の師となる藤原俊成と出会っていることだろう。

ところが彼女には一つの特徴がある。選子内親王のように文学サロンを開設していた形跡がないのである。

そのため、どういう状況で和歌を詠み貯めていったのかがよくわかっていない。私歌集の『式子内親王集』などに400首ほどの和歌が伝わるくらいである。

しかしその中で『新古今和歌集』には49首、勅撰和歌集全体では120首以上の歌が採られている。勅撰集に載るだけで歌人として著しい名誉なのに、この数と採択率は驚くべき高確率である。

同時代の歌僧西行(1118-90)でも2300首ほど伝わる作品で勅撰集に載ったのは265首で11.5%にとどまっている。