老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 インフィニティープールのある温泉ホテル、高原のテラス付きコテージ、富士山が見える湖畔のグランピング――。
 その日、瑠璃はバックヤードのノートパソコンでテレビを見ながら、遅い昼食を食べていた。午後のワイドショーでは、夏休みにいきたい近場のリゾート特集をやっている。
〝すごーい、海しか見えません! 水平線が広ーい! 絶景ですー〟
 インフィニティープールに入った水着のタレントが、大仰な歓声をあげた。
 以前ならこうした光景は、すべてテレビ用の演出に思えた。実際にいってみれば、電線が存外近くにあったり、すぐ下を車がびゅんびゅん通っていたり、あまりに混んでいて、人の頭越しに水平線を見ることになったりするのが関の山だと。
 テレビの情報を鵜吞みにすると、大抵はそんな目に遭わされる。
 だけど、現実にあるんだよなぁ。あるところには……。
 賄いのサンドイッチを咀嚼しつつ、瑠璃は週末の光景に思いを馳せた。
 高台のテラスから眺めた、大きな蒼い海。本当に、周囲に遮るものはなにもなかった。水平線の彼方には、初島や大島の影が見えた。
 聞こえてくるのは、遠い潮騒と小鳥の囀りだけだった。
 あんな夢みたいな場所で、なんでもないように暮らしている人たちが、この世にはいるんだな。
 回想していると、今でもぼんやりとしてしまう。
 週末、なんとか休みをとって訪ねた、敬一の両親が暮らす真鶴の別荘は、瑠璃の想像を遥かに超える素晴らしい邸宅だった。
 あの広いテラスで、一日中海を眺めていられたら、どんなに幸せだろう。
 そんなことを考え始めると、秀夫特製のサンドイッチを食べていながら、どうしても上の空になる。
 全粒粉のパンに、今が旬のズッキーニのソテーと田舎風パテを挟んだサンドイッチは、セイボリーでも人気の一品だ。粒マスタードがぴりっと効いていて、後を引く。もっと集中して食べなければ、もったいない。
 そう思いながらも、瑠璃の脳裏からは週末の光景が離れなかった。
 仕方ないよな。あんな場所にいったの、生まれて初めてだったんだもの……。
 大海原を見渡せる眺望がとにかく見事だったが、瑠璃を驚かせたのは、それだけではない。
 ホテルのエントランスのような玄関、鈴蘭の形のシャンデリアが吊るされた廊下、大きな窓から海を臨む広々としたリビングには立派なソファーが置かれ、部屋の隅にはどっしりとした暖炉が設えられていた。
 映画やドラマや雑誌でしか見たことのない世界が、眼の前にあった。
 だけど、そのゴージャスな雰囲気を楽しめたかと問われると、途端に心許なくなる。
 ホームパーティーの開始時間より少し早めに到着した別荘で、瑠璃は最初、敬一と共に応接室に案内された。
 そこで挨拶した敬一の両親は、父の一郎(いちろう)が七十代、母の鞠子(まりこ)が六十代と見受けられた。一郎はでっぷりと太った赤ら顔の男性で、鞠子は反対にほっそりとした色白の女性だった。
 一郎は猛禽類のような鋭い眼差しをしていたが、鞠子はにこやかで優しそうだ。ただ、白い貌(かお)に赤い唇が妙に映えていた。
 応接室の壁には、たくさんの絵画が飾られていた。一つ一つ立派に額装され、ちょっとした画廊のようだった。
〝随分、たくさん絵があるんですねぇ。お父様は美術がお好きなんですかぁ〟
 これらの絵画がすべて一郎の収集品だと聞かされた瑠璃がそう尋ねると、敬一があっさりと首を横に振った。
〝いや。うちの家族に、美術に興味のある人間なんていないよ。全部、親父の投資だ〟
 投資?
 一瞬、きょとんとした瑠璃に、一郎が唐突に尋ねてきた。
〝この部屋にある絵が全部でいくらになるか、あなたに分かるかな〟
 絶句する瑠璃を前に、〝分かるわけないか〟と呟き、一郎は鼻を鳴らすようにして笑った。本人はそうと意識すらしていないような、ごく自然ににじみ出る侮りの態度だった。
 そして、鞠子がお茶と一緒にテーブルに出してくれた、瑠璃の手土産のエクレールを一口かじるなり、〝なんだ、ちっとも甘くないな〟と吐き捨てた。
 自分で作ったと偽って持参した、朝子作の抹茶のエクレールが食べかけのまま皿の上に取り残されているのを、瑠璃はじっと見つめた。
 父親が糖尿病だと敬一から聞いていたから、わざわざ一番カロリーの少ない低糖質のお菓子をセレクトして持っていったのだが――。
 投資のために絵を集めるというのがどういうことなのか、今でも瑠璃にはぴんとこない。
 その後、ホームパーティーに集まってきた人たちも、株式の銘柄や株価の話ばかりしていて、全く輪の中に入っていけなかった。
 パリピの瑠璃ちゃんなのにね。
 サンドイッチを咀嚼しつつ、瑠璃は微かに自嘲する。
 豪華な別荘でのホームパーティーは、仲間たちと楽しんできたパーティーとはまったく質が違っていた。
 唯一の救いだったのは、鞠子が思いのほか優しかったことだ。
 敬一は相変わらずむっつり黙ってワインを飲んでいるだけなので、瑠璃は途中から、キッチンの鞠子を手伝いにいった。お茶を用意することくらいなら、自分にもできる。
〝気を遣わなくていいのよ。ほとんどケータリングだから〟
 キッチンに入った瑠璃に、鞠子は真っ赤な唇で微笑んだ。
〝あ、でも、デザートにガトーショコラを出そうと思うから、それを一緒に作りましょうか〟
 しかし、そう続けられたときは、正直焦った。
 あのときのことを思い出すと、瑠璃は今でも冷や汗が滲みそうになる。〝趣味はお菓子作り〟と称していた瑠璃の嘘を、鞠子が見抜けなかったわけがない。
 事実、不器用にチョコレートを刻む瑠璃の手際は酷いものだった。持参したエクレールが手製でないことも、完全にばれていたはずだ。
 だけど、鞠子はなにも言わなかった。すぐに、紅茶の用意をするように指示を切り替えてくれた。
 瑠璃は恐る恐る鞠子の表情を窺ったが、そこに呆れたような様子は少しも浮かんでいなかった。
〝さすがは一流ホテルのラウンジスタッフさんね。すごくいい匂い〟
 それどころか、紅茶を淹れる手腕を褒めてくれさえした。
 見かけ通りの優しい人――。
 瑠璃が感動を覚えていると、鞠子は冷蔵庫から大きな肉の塊を取り出した。
〝うちのお食事は専門の方が作ってくれるものが多いんだけど、お菓子とステーキだけは私が焼くの。パパは毎晩、お肉がないと駄目な人だから〟
 成程、敬一の肉料理好きは、父親譲りなのかもしれない。
 そんなことを考えつつ、ガスレンジに向かう鞠子の手元を何気なく覗き込み、瑠璃はぎょっとした。
 すごい量だったよな……。
 今思い返しても、いささか圧倒される。
 フライパンの中には、巨大なバターの塊が投入されていた。
 大量のバターでソテーした和牛のステーキは、確かに素晴らしく美味しそうだったけれど。
 糖尿病なのに、あんなの食べて大丈夫なのかな? ガトーショコラにも、結構な量の砂糖とクリームを使っていたし。
 サンドイッチの最後の一かけらを口に入れ、瑠璃は首を傾げる。
 それとも、あんな食生活だから、糖尿病になったのだろうか。一郎は、食後にもブランデーのお供にガトーショコラをたっぷりと食べていた。
 強いお酒と濃厚な古典菓子の相性がいいことは、瑠璃だって知っている。だけど、その二つともカロリーの爆弾だ。
 食前にも食後にも、薬は飲んでいたようだが。
 一人で鞠子特製のステーキを平らげた後、こってりとしたガトーショコラを平気でいくつも口にする一郎を、敬一はもちろん、鞠子もたしなめようとはしていなかった。
 というか……。
 本来ならホームパーティーのホステスである鞠子は、ほとんどリビングに出てこなかった。敬一も始終つまらなそうな顔をして、部屋の隅のほうにいた。
 パーティーでも、家族でも、でっぷり太った一郎が、圧倒的な中心人物に見えた。
 その一郎が、時折自分を石ころかなにかのように眺めていたことを思い返すと、瑠璃の心は重く沈む。
〝分かるわけないか〟
 初対面とはいえ、夜遅くまで続いたパーティーの後片付けを最後まで手伝ったのに、その一言以降、言葉をかけられることもなかった。途中でホームヘルパーさんたちが帰ってしまったので、瑠璃は鞠子と二人で、新幹線の終電までグラスを洗い続けた。
 海の見える別荘はすてきだったが、あの父親が牛耳る家に嫁ぐことを想像すると、瑠璃はやっぱり戸惑いが先に立つ。
 そもそも、自分はあの家で、花嫁候補として認められたのだろうか。
 猛禽類のような一郎の眼差しと、なぜだか鞠子の赤い唇が脳裏をよぎる。
 瑠璃がすっかり考え込んでいると、ノックと共に、バックヤードの扉が開いた。
「あ、E657系ひたち」
 賄いのサンドイッチを片手に入ってきた俊生が、ノートパソコンの画面に映る特急電車を指さす。見れば、ワイドショーのリゾート特集は、今度は交通機関の紹介に移ったようだ。
「あらー、東武鉄道500系リバティ」「おおう、E261系サフィール踊り子」「いよー、E257系さざなみ」
 特急電車が映るたびに、俊生が歓声をあげる。
「電車を一々系で呼ぶのやめてくれる? うぜえから」
 瑠璃は音を立ててノートパソコンを閉じた。
「す、すすす、すみません、つい」
 途端に、俊生が真っ赤になって下を向く。
 ったく、オタクがよ……。
 瑠璃は内心舌打ちした。
 以前、有楽町に涼音の送別会用のプレゼントを買いにいったときも、俊生は東京よりのホームの端からなかなか動こうとしなかった。
〝ここは東京に向かって線路がカーブになってまして、電車の全景がよく見えるんですね。あっ、N700系東海道新幹線!〟
 あの日も訳の分からないことを言って、一人でいつまでも盛り上がっていた。荷物持ちにもなりはしないと呆れたものだ。
「眼鏡、おめー、鉄(て)っちゃんなの?」
 サンドイッチを包んでいた紙をダストボックスに捨てながら、瑠璃は一応尋ねてみる。
「いやあ、それほどでも」 
 すると、なぜだか俊生は今度は嬉しそうに照れ始めた。
「一つも褒めてねえし」
 俊生といると、どうにも調子が狂う。
「でも、お昼これから? 随分、遅いじゃん」
「ああ、はい……。ちょっと、常連のご婦人たちにつかまっちゃって」
 俊生を孫扱いしたがる老齢の婦人たちから、長い世間話を聞かされていたらしい。人の良い俊生のことだ。自分の昼休みがなくなることも構わず、延々相手をしていたのだろう。
「今日はラウンジが空いてるからまだいいけどさ。そういうの、ほどほどにしときなよ」
 念のため、瑠璃はそう忠告した。
 ラウンジで唯一の男性スタッフである俊生は、常連の老婦人たちからおもちゃにされ始めている節がある。
「おめーは、良くも悪くも圧がねえからな」
 そのせいか、俊生が相手だと、瑠璃も普段隠している地が自ずと出てしまう。
「お気遣いありがとうございます」
 丁寧に頭を下げてから、俊生はテーブルについた。
「ところで林先輩は、僕を眼鏡、眼鏡と呼びますが……」
 賄いのサンドイッチを包んでいる紙を破り、俊生が改まった口調で切り出した。
「は? なに? ポリコレ棒でもふりまわすつもり?」
 ポリティカル・コレクトネスという言葉が、日本でも通常に使われるようになって結構経つ。差別や偏見を生まない表現を心掛けるという指標だが、これにこだわりすぎると、軽口の一つもたたけなくなる。
「眼鏡くらいで、〝差別主義者はいねがー〟とか言うわけ?」
「いえいえ」
 身構えた瑠璃の前で、俊生は大きく首を横に振った。

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