老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

「実際、僕の存在証明って、眼鏡だと思うんですよねぇ」
「はあ?」
 またしても訳の分からないことを言い始めた。ときとして、俊生の言い分は瑠璃の想像の遥か斜め上をいく。
「いや、僕のこの眼鏡、実は中学受験に合格したときに父親から買ってもらったクラフトで、めちゃくちゃかっこいいなぁと思って、それ以来、修理しながらずっと使ってるんです」
 大真面目な表情で、俊生が自分の眼鏡を指さした。
「あ、そう」
 気圧されたように、瑠璃は頷く。
 正直、野暮ったい黒縁のロイド眼鏡にそんなこだわりがあったとは、思ってもみなかった。
「僕、小学生時代からド近眼で、ずっと眼鏡かけてきましたから、眼鏡外しちゃうと、自分でも誰だか分かんないんですよ」
 そう言って、俊生が眼鏡を外してみせる。遠くへ向けられた瞳が意外に澄んでいることに、瑠璃はどきりとした。
「僕、歳(とし)の離れた姉がいるんですが、その姉に、たまたま眼鏡を外しているところを、スマホで撮られちゃって。でも、その写真見たら、違和感しかなかったんですよねぇ。まったく自分が自分に思えませんでした」
 眼鏡をかけると、いつもの俊生が戻ってくる。
「姉からは、しつこくコンタクトにしろって言われるんですけど、全然そんな気になれなくて」 
 歳の離れた姉が弟にコンタクトレンズを勧める気持ちが、瑠璃には分かった。
 眼鏡を外すと、俊生は案外綺麗な眼差しをしている。
 コンタクトにして、髪型をちゃんとすれば、ひょっとすると敬一よりもずっとイケメンになるかもしれない。
「多分、この眼鏡は、傍(はた)から見ればどうでもいいものかもしれませんが、僕にとっては、僕が僕であるための存在証明なんです」
 瑠璃の考えをよそに、俊生はださい眼鏡をくいっと持ち上げ、にっこりと笑った。
「つまり、そういうことなんじゃないですかね」
「え? なにが」
 またしても、会話の行き先が見えない。
「この間の送別会で、遠山先輩が話してたことですよ。結婚後に、夫婦のどちらかが改姓しなければいけないことについて、男の僕はどう思うのか意見を聞きたいって言われてから、ずっと考えてたんです」 
 そこへ行きつくのかと、瑠璃は軽く眼を見張った。
 この間、涼音と会ったときに、婚姻後の夫婦同姓を法律で義務付けているのは世界でも日本だけだと聞いて驚いたが、俊生がそのことをしっかり考え続けていたとは思っていなかった。
「色々考えた結果、結婚で自分の苗字を失うのって、男性女性にかかわらず、僕が愛着のある眼鏡を取り上げられるのと同じようなことなんじゃないのかなって、思いついたわけです」
 小動物のようにちまちまとサンドイッチを食べながら、俊生が続ける。
「視力矯正のときにコンタクトか眼鏡かを自分で選べるように、結婚後の同姓か別姓かも、誰かに押しつけられるんじゃなくて、自分の意志で自由に選べるようになればいいですよね」
 しかし、こんなふうになんでもないことのように言ってのけられると、瑠璃はなんだかむっとした。
 今現在、瑠璃が固執している結婚そのものを、随分と軽く見られているような気がしたのだ。
「そんな単純な話じゃないでしょ」
 思わず吐き捨てれば、ハッとしたように俊生がこちらを見る。
「そ、そうでした。眼に病気がある場合は、自由になんて選べませんよね。し、失礼致しました」
「ちげーよ!」 
 頭を下げようとする俊生に、瑠璃はますます苛立った。
「そういうことじゃなくて、そもそも視力矯正と結婚をごっちゃに語るなって話だよ。夫婦同姓、別姓とかはともかく、結婚は人生の一大事なんだから」
「視力矯正だって、人生の一大事ですよ」
「はあ? なに言ってんの? バカなの?」 
 違和感やためらいと戦いながら挑もうとしている結婚を、視力矯正なんかと一緒くたにされてたまるものか。
「そんなの全然違うから」
 瑠璃は鼻息荒く言い返したが、俊生は口をもぐもぐさせながら首を傾(かし)げる。
「そうですかねぇ……。段階を踏むということにかけては、大差がない気がしますけど」
「段階?」
「はい」
 サンドイッチをごくりと呑み込み、俊生が頷いた。
「結婚も視力矯正も、たくさんある段階のうちの一つだと思います。誰かを好きになるという段階を踏んだ後に、視野に入ってくるのが結婚でしょう? もちろん、物事の順序や必要性は人によって違いますから、誰もが同じ段階を踏むわけではないですが」
「違うって」
 瑠璃は今度は冷静に断定する。
「結婚は段階じゃなくて、契約だよ」
 眼鏡をかければ視力は良くなるだろうが、それで一足飛びに環境が変わるわけではない。 瑠璃にとっての結婚は、〝なし寄りのあり〟でしかない今の自分を一変させる、一世一代の賭けに等しい契約だった。
 若さと外見という限られた手札を武器に、一番条件のいい契約を勝ち取ることこそが、今ここにあるミッションなのだ。
「そのために、こっちは全力で婚活してんだから」
 ぽろりとこぼした途端、俊生が分厚いレンズの奥の眼を皿のようにする。
「えぇええええっ! 林先輩、婚活してるんですかっ」
「なんだよ、悪いのかよ!」
 俊生の失礼なまでの仰天ぶりに、瑠璃の声も大きくなった。
「こう見えて、こっちはもうアラサーだぞ。子ども産むこと考えたら、のんびり構えてらんねえんだよ」
 第一子を産む理想年齢に追いついてしまった今、いつまでも〝若い娘〟ではいられない。
「お相手はシンガポール赴任を控えたエリート商社マンだぞ。結婚に漕ぎ着ければ、運転手、ホームヘルパーつきの夢の駐妻生活決定じゃん。このチャンス、絶対つかみ取ってみせるわ」
 自らを奮い立たせるように、瑠璃は拳を握った。
「……林先輩」
 暫し絶句した後、俊生がぼそりと呟くように言う。
「その人のこと、好きなんですか?」
 真っ向からそう聞かれると、次に言葉に詰まるのは瑠璃の番だった。
 敬一のことを好きなのかどうか、自分でもよく分からない。会話ははずまないし、なにを考えているのかも理解できない。ただ、すこぶる条件がよいし、これまでマッチングアプリで出会った男のように無闇に手を出してくることもないし、徹底的に嫌だというわけでもない。
「……だから、契約だって言ったじゃん」
 我知らず、絞り出すような声が出た。
「僕には、林先輩の言っていることがよく分かりません。好きになるという段階を踏んだ上で、見えてくるのが結婚という段階なんじゃないんですか」
「そんなきれいごとばっかり言ってらんないんだってば」
 頑固に主張する俊生に、瑠璃の苛々が頂点に達しそうになる。
「条件のいい結婚をしようと思ったら、今しかないんだよ。おめーは男で、おまけにオタクだから、そんな呑気なこと言ってんだって」
「でも、僕には遠山先輩が、契約で結婚しようとしているようには思えません」
 涼音を引き合いに出されて、瑠璃は本気でカッとした。
 自分と涼音が違うことなんて、当の瑠璃自身が一番よく分かっている。
「スズさんが結婚で名前を失うのがどうしたこうしたってうだうだ言っていられるのは、自分が飛鳥井シェフっていう超優良物件を手中に収めてる余裕があるからなんだよ」 
 あ、嫌だ――。
 口に出してしまってから、瑠璃は内心自己嫌悪に陥った。
 涼音のことは好きだし、尊敬もしている。それなのに、こんなことを口にする自分が、本当に嫌だ。
 そう思うにもかかわらず、すべての段階をすっ飛ばして、とにかく結婚にたどり着こうともがいている自分の焦りを考えると、涼音の拘泥がやっぱり贅沢に感じられてしまう。
〝結婚さえしちゃえば、こっちのもんじゃないすか〟
 送別会のタイレストランで瑠璃がそう言ったとき、涼音はびっくりしたような表情でこちらを見ていた。結婚さえできればいいという考えは、きっと、涼音の中には存在しないものだったのだろう。
「遠山先輩に余裕があるから、夫婦同姓に疑問を抱いているとも思えませんね。それに、人を〝物件〟呼ばわりするのはいかがなものでしょうか」
 うわ、なんなの、こいつ。マジでむかつく。
「あー、はい、はい。あんたは正しい、ポリコレ眼鏡さま。だけど、私から見れば、スズさんはやっぱり余裕があるんだよ。ご指摘の通り、私とスズさんじゃ格が違うし。私は自分の名前へのこだわりもないし、もっと言えば、スズさんみたいな仕事に対する情熱みたいなものも、なんにもないから」
 こんなことを口にさせる俊生を、瑠璃はにらみつけた。
「それじゃ、林先輩は、婚活が成功したら、このラウンジを辞めちゃうんですか」
「たりめーだろ。シンガポールで駐妻になるんだから」
 即答すると、俊生がぐっと唇を噛んで黙り込んだ。
 その傷ついたような表情に、なぜだか瑠璃の胸がずきりと痛む。
「私は、電車と眼鏡さえあれば幸せになれるあんたとは違うの。もっと欲しいものがたくさんあるの。それを手っ取り早くかなえてくれるのが、今回の結婚なんだってば」
 胸に走った痛みをかき消すように、瑠璃は続けた。
「それに、私はラウンジでも必要不可欠な人材じゃないじゃん。私みたいなただのパリピにとって、ハイスぺ男との結婚は、一発逆転の大チャンスなんだからね」
 説得しているのが、眼の前の俊生なのか、自分自身なのかが段々分からなくなってくる。
「だから、契約でいいんだよ。別にそれほど好きじゃなくたって……」
 瑠璃の口調にあきらめの色が滲んだとき、押し黙っていた俊生がぱっと顔を上げた。
「でも、そんな契約、なんだか身売りみたいじゃないですか。相手にだって失礼ですよ」
「うっせえ!」
 反射的に叫んでいた。
「なに、分かったようなこと言ってんの? 眼鏡のくせに。だったら、おめーに、シンガポールへの駐在ができるのかよ。新卒っていう正規雇用への切り札を無駄にしておきながら、偉そうなこと言ってんじゃねえよ」
 その瞬間、俊生の表情が苦しげにゆがんだことに、瑠璃はハッとする。
 部屋の中がしんとした。
 二人が黙ると、窓の向こうから微かに蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「……その通りですね。余計なこと言ってすみません」
 やがて、俊生が小さく呟いた。
「ごめん。こっちも言い過ぎた」
 さすがに大人げなかったと、瑠璃はきまりが悪くなる。これでは喧嘩だ。いや、後輩の俊生を不必要にやり込めてしまった。そっと様子を窺えば、俊生はうつむいてぼそぼそとサンドイッチを食べていた。もう、こちらを見るつもりはなさそうだった。
 いたたまれなくなり、瑠璃は立ち上がる。
「本当に、ごめん」 
 部屋を出る前にもう一度謝ったが、やはり反応はなかった。バックヤードの扉を後ろ手で閉めた途端、鼻の奥がつんとする。
 なんで――?
 俊生を傷つけてしまったことに深く傷ついている己を自覚して、瑠璃は戸惑う。
 全ての迷いを払うように大きく頭を振り、瑠璃は足早にその場から立ち去った。

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