老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 八月最初の週末、瑠璃は敬一と共に、再び真鶴の別荘を訪れていた。
 今度はホームパーティーではなく、敬一の結婚相手として認めてもらうための本格的な訪問だった。前回は日帰りだったが、今夜は二階のゲストルームに泊まることになっている。
 浴室に天然温泉が引かれていると聞いたときは心が躍ったけれど、こうして四人だけでテラスのテーブルを囲むと、瑠璃はどこかで気後れしている自分を感じた。
 なんだかんだと躱しつつ、敬一とはまだ関係を持っていない。敬一のほうもたいして性急ではなかったので、その点、瑠璃は助かっている。
 もっとも、そうした理由が、いずれ結婚するのだからよいと鷹揚に構えられているのか、あるいはほかに理由があるのかは、定かではなかったが。
 潮風に吹かれながら、瑠璃はちらりと隣の敬一の横顔に視線を走らせた。今日も仕立ての良さそうなシャツを着た敬一は、無表情で鞠子の手製のレモンスカッシュを飲んでいる。
 相変わらず、なにを考えてるのかよく分からない男だよ……。
 胸の裡で、瑠璃は独り言ちた。
 まさか、両親の別荘で手を出してくるとも思えないが、この家で入浴したり、寝泊まりしたりすることが、この期に及んでも実感できない。
「いい天気になってよかったわね」
 一郎のグラスにレモンスカッシュを注ぎつつ、鞠子が海のほうに眼をやる。赤い唇がにっこりと笑みをたたえ、長い髪が潮風に躍った。テーブルの上には、ホテルのラウンジで出されるような綺麗な切り口のサンドイッチが並んでいる。 
 つられて視線を転じれば、八月の強い日差しを受けて、水平線の辺りがきらきらと輝いていた。蒼い大海原にダイヤモンドの欠片をちりばめたような光景に、瑠璃は思わずうっとりとする。
「満月の時期は、あの水平線から大きなまん丸い月が昇るの」
 鞠子の細く白い指先が、海の向こうをさした。
「雲のないときには、夜の黒い海に、銀色の月の道ができるのよ。まるで夢みたいな景色よ」
 漆黒の海原に銀色の細い道が現れる情景を、瑠璃も思い浮かべてみた。聞こえてくるのは、遠い潮騒と虫の音だけ。どんなに美しい世界だろう。
「もう少し秋が近づくと、大きなオリオン座も水平線から昇ってくるの。もちろん朝日だって見えるし、ここからは、なんだって見えるのよ」
 少し酔ったような調子で、鞠子が続けた。
「風が強すぎるな」
 しかし、それをぴしゃりと遮るように、一郎が口をはさむ。
「おまけに暑い。中に入るぞ」
 提案ではなく、命令の口調だった。さっさと立ち上がりリビングに入っていく一郎のあとを、敬一が無言でついていく。
 レモンスカッシュも、サンドイッチも、ここにあるのに。なにより、気持ちの良い海風と、蒼く輝く大海原がここにあるのに。
 瑠璃はこの場に残って鞠子の話を聞いていたかったが、当の鞠子がトレイにサンドイッチやカトラリーをまとめ始めたので、それを手伝うしかなかった。
 ラウンジ仕込みの手際でレモネードのピッチャーやグラスをトレイに載せて、リビングに足を踏み入れる。その途端、ソファーにふんぞり返っている一郎に笑い出された。
「さすがは堂に入ったもんだな」
 なぜ笑われているのか分からず首を傾げた瑠璃に、一郎が畳みかけてくる。
「あんた、ホテルのラウンジのお運びさんなんだろ。どこでうちの息子に眼をつけたのか知らないが」
 その言葉に、瑠璃は幾重にも衝撃を受けた。
〝お運びさん〟という言葉はもちろん、自分たちがマッチングアプリで知り合ったことを敬一が両親に告げていないらしいことにも、〝眼をつけた〟のが瑠璃のほうだと思われていることにも。
 すかさず敬一を見やれば、きまり悪そうに視線を逸らされた。
「しかし、面白いもんだよな」
 なおも可笑しそうに、一郎が二重顎を揺する。
「うちのも昔はお運びさんだったんだ。といっても、鞠子は夜のラウンジだけどな。まともな話もできないくせに、男を絡めとるのだけはうまかったんだ。料理も最初は全然できなくてな。高い金を払って、ホテルのクッキングスクールに通わせて、ようやく人並みになったわけだ」
「やめてよ、パパったら」
 随分な言われようなのに、さして気分を害した様子もなく、鞠子が赤い唇で笑った。
「それに、お運びさんなんて、瑠璃さんに失礼ですよ。瑠璃さんは私と違って、格式あるホテルのラウンジスタッフなんですから」
「ホテルだろうとなんだろうと、お運びはお運びだろう」
「駄目ですよ。今はそういうこと、口にしちゃいけない時代なんです」
 ねえ、と同意を求められて、瑠璃はためらう。
 ここで頷いても、首を横に振っても、自分が傷つく気がした。口にしてはいけないだけで、心の中ではそう思っていることを、鞠子も認めているように感じたからだ。
「なにが時代だ。今、お前たちがのうのうと楽しんでいるこの時代を、一体誰が作ってきたと思ってるんだ」
「そりゃあ、もちろん、パパたちのおかげでしょうね」
 間髪を容れぬ鞠子の答に、一郎が満更でもない表情になる。
「まあ、分かってるならいいけどな。だったらその俺のために、もう少し、食べ応えのあるもの用意してくれよ。サンドイッチなんて、昼食でも食った気にならない」
 ソファーにもたれ、一郎は太った身体を揺すった。
「それじゃあ、ビーフカツレツでも作りましょうか」
 鞠子の言葉に、一郎が眼を輝かせる。
「そうだな。糖尿病なんてのは、結局、薬と注射で抑え込めばいいことだから」
「まずいものを食べて長生きするより、美味しいものを食べて長生きするっていうのが、パパの持論ですものね」
 茫然としている瑠璃からトレイを取り上げ、鞠子はキッチンへと向かっていった。
「座れば」
 敬一にぼそりと促され、棒立ちしていた瑠璃は、おずおずとソファーの端に腰を下ろした。ここからも海は見えるが、もう先ほどまでの解放感はどこにもない。
 広いリビングなのに、息が詰まりそうな気分だった。体感温度の高そうな一郎に合わせているのか、部屋の中は冷房が利きすぎている。スリーブレスのワンピースを着ている瑠璃には寒いくらいだ。
 お運びさん――。
 先ほど一郎からぶつけられた言葉が、まだ胸の奥に引っかかっている。
 でも、実際、そうなのではないの?
 どこか遠くで自問する声がした。
 涼音のようにメニュー開発に心血を注いでいるわけでもないし、香織のようにラウンジをまとめているわけでもないし、朝子のように腕一本で製菓をしているわけでもないし、彗怜のように上昇志向があるわけでもない。
 ただただ、ゲストに出来上がったメニューを運んでいるだけだ。
 一郎の言い草に、傷つく必要なんてあるのだろうか。
 そもそも自分は、ラウンジの仕事にたいした情熱を抱いていない。正直に言えば、最近は辞めたい気持ちのほうが勝っている。
 ラウンジ班のチーフの香織と、調理班のチーフの朝子の対立は、今やサポーター社員たちが気づくところまで深まっていた。
 加えて、最近、秀夫の様子が少しおかしい。
 基本的に陽気なタイプなのだが、このところ、妙にむっつりとしていることが多い。秀夫の不興は、毎日の賄いにも表れていた。試作も兼ねている秀夫の賄いは、セイボリーの残り物を使用しているとはいえ、従来のサンドイッチとは一味違い、瑠璃を含む多くのスタッフたちのランチの楽しみになっている。
 ところが、ここ数日、ハムとチーズを挟んだだけの単調な賄いが続いていた。
 それに……。
 そこまで考えたとき、瑠璃の胸がちりちりと鈍く痛む。
 バックヤードでの言い合い以来、俊生とは、ずっと気まずい状態が続いていた。できるだけ明るく声をかけても、捗々しい返事がかえってこない。業務上、必要最低限なやりとりはしているが、視線が合うことはない。
 完全に嫌われてしまったようだ。
 そう認めると、瑠璃は一層気持ちが沈んだ。
 あんなオタクにどう思われようが、知ったことじゃないはずなのに。
 落ち込んでいる自分が不甲斐なくて、瑠璃は無理やり気持ちを奮い立たせた。
 今、自分はそんなことを、くよくよと思い悩んでいる場合ではない。この婚活を成功させ、駐妻待遇を手に入れ、ぎくしゃくするばかりのラウンジから華麗に卒業してやるのだ。
 そのためなら、鞠子のように「パパたちのおかげ」と話を合わせ、この場にいることを楽しむほうが、ずっと得策だ。
 やがて、鞠子が揚げたてのビーフカツレツをテーブルに運んできた。たっぷりのラードで揚げたらしいカツレツは、ボリュームがあって美味しそうだ。一瞬、敬一も手を出そうとしたが、鞠子はなぜかそれを払うようにして一郎の前だけに置いた。一郎が当たり前のように一人で食べ始め、敬一が微かに落胆の色を浮かべる様子を、瑠璃は無言で眺めた。
「さあ、いただきましょう」
 なんでもないように鞠子が両手を合わせる。
 瑠璃は敬一と並び、見た目は綺麗だが、冷たいサンドイッチを、クーラーの利きすぎたリビングで黙々と食べた。
「瑠璃さん、せっかくだから、日のあるうちにお風呂に入ったらどうかしら。二階のお風呂からも、大きな海を見渡せるのよ」
 昼食を食べ終えてキッチンで後片付けを手伝っていると、鞠子がにこやかに勧めてくれた。
「え、いいんですか」
 瑠璃は思わず、敬一たちがいるリビングの方向を見やる。
「大丈夫よ。この後、パパと敬ちゃんには瑠璃さんが持ってきてくれたデザートを出しておくから。遠慮しないでゆっくり入ってきて。うちのお風呂は源泉かけ流しよ」
 そう言われると、心が引かれた。食事の間中冷房に当たり続け、すっかり身体が冷えてしまっていたし、なにより、一人になれるのが嬉しかった。
 鞠子が用意してくれたふかふかのタオルを手に、瑠璃は二階に上がった。脱衣所に入れば、そこからも蒼い海原が見える。扉をしっかりと閉め、瑠璃は大きく息を吐いた。
 優しい鞠子はともかく、傲岸な一郎と離れられてホッとする。
 瑠璃は洗面所の鏡に映る自分の姿を眺めた。今日はウォータープルーフでがっちり顔を作ってきたので、温泉に入っても大丈夫なはずだ。
 とにかく、身体を温められればそれでいい。
 ふと、日差しが陰った気がして、窓の外に視線を移す。先ほどまでは雲一つなかった空に、暗い雲が広がり始めていた。遠くから、ごろごろと低い雷鳴も聞こえてくる。また、一雨くるのだろうか。
 温暖化のせいなのか、最近の日本の夏はスコールがあると言ってもいいくらいに突発的な大雨がよく降る。しかも、傘が役に立たないほどの激しい豪雨だ。
 せっかくだから、海が蒼く見えるうちに湯船に浸かろうと、瑠璃はスリーブレスのワンピースのファスナーを下げた。ワンピースがすとんと床に落ち、下着姿になる。
 その瞬間、信じられないことが起きた。

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