老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。
――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。
いきなり乱暴に扉があけられ、一郎が脱衣所に入ってきたのだ。あまりのことに、瑠璃は悲鳴をあげることもできなかった。
ブラジャーのホックに手をかけたまま硬直している瑠璃をじろじろと眺め、一郎はふんと鼻を鳴らした。
「なんだ、いたのか」
無自覚な侮蔑に満ちた、しかし、明らかに好色な眼つきだった。
慌ててタオルで身体を隠した瑠璃に、まったく悪びれた様子もなく一郎が笑う。
「随分、大げさな反応だな。嫁になろうとしてるくせに。あんた、この家に入り込みたいんだろ?」
一郎は口の中で、なにかを小さく呟いた。それが「小娘が」という罵りだと気づいたとき、瑠璃の中でなにかがぷつりと切れた。
この男、絶対わざとここへきたのだ。
「ふざけんな、クソジジイッ!」
気づくと瑠璃は声の限りに叫んでいた。
思わぬ反撃に、一郎が虚を衝かれたような表情になる。その隙に瑠璃は力一杯タオルを投げつけ、頭からワンピースをかぶると脱衣所を飛び出した。
一目散に階段を駆け下りリビングに入るなり、自分のバッグを引っつかむ。ワンピースのファスナーを上げながら出ていこうとする瑠璃に、敬一がぎょっとした顔になった。
「なにやってんだよ、瑠璃」
「うっせえ、バカ! この家、おかしいよ。あんたも、おかしい。こんなところにこれ以上いられっか!」
乱暴に吐き捨て、瑠璃は廊下を走って玄関に向かう。靴を履くのもまどろっこしく、瑠璃は苛々とローファーのかかとを踏んで表へ出た。
一刹那、周囲がぴかっと真っ白に光る。
「ひゃっ」
悲鳴をあげて数歩後じさるのと同時に、恐ろしいような雷鳴が轟いた。ぽつり、と、大粒の雨が頭上に当たる。
ぽつり。ぽつり。ぽつり。
瞬く間に地面に黒い染みができ、次いでバケツをひっくり返したような大雨が降り出した。瑠璃は一瞬怯んだが、もうあの家に戻るわけにはいかない。覚悟を決めて、滝のような雨の中に足を踏み出そうとしたとき、背後で声が響いた。
「瑠璃さん!」
振り向くと、赤い傘をさした鞠子が、折り畳みの傘を差し出している。即座に首を横に振り、瑠璃は立ち去ろうとした。
「無理よ」
甲高い声が追ってくる。
「ここは私道だから、相当下まで降りないと、タクシーもバスもつかまらない。それに全身びしょ濡れになったら、電車にだって乗れないでしょ」
冷静に考えれば、鞠子の言うとおりだった。瑠璃は仕方なく、鞠子の差し出す折り畳み傘を受け取る。
「……すみません」
小声で礼を言い、傘を開いた。傘をさしていても濡れてしまう土砂降りの中に鞠子を立たせておくのが忍びなく、瑠璃は告げた。
「もう、大丈夫なんで、早く家に戻ってください」
「あなたなら、大丈夫じゃないかって、思ったんだけど」
しかし、それを遮るように鞠子が続ける。
「結婚さえしちゃえば、こっちのものじゃない」
以前、涼音に伝えたのと同じ台詞を聞かされ、瑠璃は呆気にとられた。
「パパはただの田舎者の成金よ。確かにお金を稼ぐのは上手だけれど、それ以外は、教養もないし、空っぽ。ホームパーティーにくる人たちだって、みんなそう思ってる。だから、とっくの昔に終わっちゃった時代に、いつまでもしがみついているの。哀れなものよ。臆することなんて、一つもない」
半ば憐れむような口調だった。
「それに、パパはもう七十過ぎてるし、大抵の場合、男の寿命は女より短いんだし」
鞠子の真っ赤な唇が、ゆったりと弧を描く。
「節制もせず、美味しいものばかり食べて長生きする人なんて、そうそういやしないわよ。特に、糖尿病の患者はね」
それじゃ――。
瑠璃の背筋にぞくりと冷たいものが走った。
フライパンに投入された巨大なバターの塊。チョコレートたっぷりの濃厚なガトーショコラ。ラードで揚げたカツレツ。
こってりした料理を、鞠子が一郎にだけ出し続けている本当の意味は……。
いつもたたえられている鞠子の優しげな笑みが、これまでとはまったく違うものに見えた。
「そうなれば、この別荘は私のものよ。海から昇る朝日も、満月も、オリオン座も、全部、全部、私と敬ちゃんのもの」
ぴかっと周囲が光り、雷鳴が轟く。
激しい雨の中、長い髪を風になぶられながら、鞠子が赤い唇で微笑んでいた。
すっかり恐ろしくなり、瑠璃は急いで踵を返す。一刻も早く、この場を立ち去りたかった。
「敬ちゃんは、パパほど酷くないわよ」
唄うような鞠子の声が、背後で響く。
瑠璃は二度と振り返らず、たたきつけるような雨に抗い、公道目指して坂を駆け下りていった。
その日は、平日にもかかわらず、午前中からラウンジは満席だった。
八月の半ばに入り、お盆休みが始まったせいだろう。人気の白桃アフタヌーンティーを目当てに集まるゲストで、連日フルブック状態が続いている。
だが、忙しいほうが、いっそ気が紛れて有難い。
瑠璃は朝から大車輪で〝お運び〟をしていた。蒸し暑さのせいか、爽やかなライムフレーバーのアイスティーがよく出た。
入り口近くの席では、ソロアフタヌーンティーの鉄人が、今日も一人でカカオブレッドのサンドイッチをつまんでいる。いつもの窓際の席を案内できなくて申し訳なく思ったが、ラウンジの混雑を見て取ると、鉄人は穏やかな表情で席に着いてくれた。
涼音であれば、一人客でも常連を優先的に窓側の席に案内するだろうが、そこは香織の采配だ。もとより現在のラウンジのチーフは香織なので、瑠璃とてその指揮に異存はない。それにこの日は朝から曇り空で、庭園の緑も、いつもよりくすんで見えた。
忙しいながらも、午前中の時間は淡々と流れていく。
このまま、何事も起きなければいいんだけど……。
パントリーで、サポーター社員たちと一緒にアイスティーやシーズナルティーの用意をしながら、瑠璃は少々不安な気持ちに襲われた。
今日は正午に、カスハラジジイこと篠田和男の予約が入っている。前回と同じく、女性二人を連れての来店の予定だった。
厄介なことに、こんな日に限って秀夫が急遽休みを取った。なんでも、家族に緊急事態が起きたのだそうだ。
〝家族じゃなくて、元家族だけど〟
連絡を受けた香織に、秀夫はそう弁明したらしい。
シニアスタッフの秀夫が熟年離婚をしていることは、周知の事実だ。なんでも関西で古典菓子の店を潰した後、東京で雇われシェフに戻り、ようやく借金を返済した矢先に、それまでずっと支えてくれていた奥さんから、「もう大丈夫でしょう」と別れを切り出されたのだそうだ。
とはいえ、かつてイヤーエンドアフタヌーンティーにきていた奥さんと娘さんと、秀夫は和やかに話していた。その姿は、今尚仲睦まじい家族に見えた。
あの真鶴の別荘の人たちよりもよっぽど……。
もう一つの、いびつな家族の姿が脳裏に浮かぶ。
先週末、瑠璃は初めて自分から敬一を呼び出した。駅のコーヒーチェーン店で、鞠子から貸してもらった折り畳み傘を返し、もう二度と会うつもりはないとはっきりと告げた。
敬一はしばらく黙っていたが、やがてぼそりと呟くように言った。
〝瑠璃は、最初から俺のこと、別に好きじゃなかったでしょ〟
もう隠す必要もなかったので素直に頷いたけれど、それはお互い様だと思った。
〝敬一さんだって、そうですよね〟
瑠璃の問いかけに、敬一は苦虫を噛み潰したようなゆがんだ笑みを浮かべた。
〝でも、うちの両親もそうだからな……〟
そのとき瑠璃は、出会ってから初めて、敬一の本音に触れた気がした。
結婚って、一体なんなんだろう。
それを契約だと割り切ることが、敬一たち家族のいびつさを知ってしまった瑠璃には、もうできそうになかった。
〝それでも、敬一さんは結婚したいんですか〟
〝まあ、そう望まれているからね〟
望んでいるのが、両親なのか、会社なのか、それとも世間一般的なことなのか、瑠璃にはよく分からなかった。
〝敬一さんは、どうしてマッチングアプリなんかで相手を探しているんですか〟
これが最後なので、以前から一度聞いてみたかった質問を、瑠璃はしてみた。敬一の経歴があれば、アプリに頼らなくても相手を探せるのではないかと思ったのだ。
〝俺、女性に好かれないから〟
しかし、敬一の答えは予想外のものだった。
子どもの頃から、異性とうまくいかないのだと、敬一は続けた。
〝お袋とですら、そうなんだ。あの人がご馳走を作るのは、いつも親父にだけだよ。子どもの頃、手を出そうとして、いきなりはたかれたこともある〟
これはパパのよ――。
ぴしゃりと手をはたいた母の顔が、まるで般若のように見えたという。
〝あれはきつかった〟
寂しげな笑みを見て、カツレツが一郎の前にだけ置かれたとき、敬一が微かに落胆の色を浮かべていたことを思い出した。
〝だから、条件で寄ってくる子で充分だって思ったんだ〟
ちげーよ!
あのとき瑠璃は、店内の人が驚くような声で遮った。
「ちげーんだよ、バカ……」
誰にも聞かれないように、パントリーの隅で瑠璃はもう一度呟く。
一流大学を出て、大手総合商社に入った敬一は、勉強や仕事はそれなりにできる人なのだろう。だけど、色々と間違っている。
その間違いの根底に潜んでいるのが、恐らく寂しさや悲しみであることが、瑠璃の心を一層切なくさせた。
〝あんたさ、あの親父はともかく、お母さんとはちゃんと話したほうがいいよ。親父の病気のことも含めて、子どもの頃、あんたがしんどい思いをしたこととかも、もっといろいろ〟
最後の最後に告げた言葉が、どこまで敬一に伝わったのかは分からない。それで、あの家族がどうにかなるのかもまったく分からない。
だけど、あの混雑したコーヒーチェーン店で、ようやく自分たちはほんの少しだけまともに向き合うことができたのだと瑠璃は思った。
高級フレンチやイタリアンのお店での空疎なやりとりより、ごみごみした店内で交わした十分ほどの会話のほうが、ずっと心に刻まれている。
「うわー、きた」「私、絶対、近づきたくない」
サポーター社員たちのざわめきに、回想に浸っていた瑠璃は、はたと我に返った。
「篠田さま、どうぞこちらへ」
チーフの香織直々のアテンドで、ぱりっとしたサマースーツを着た篠田と、三十代と思しき二人の女性が窓側の席に案内されている。
女性は、前回とは違う人たちだった。
「すごい、すてき」「桜山ホテルのラウンジ、一度きてみたかったんです」
庭園を見渡せる席に案内され、はしゃいだ声をあげている。
「今日、シェフは?」
女性たちの興奮ぶりに満足げな表情を浮かべた篠田が、横柄な調子で香織に尋ねた。
「申し訳ございません。本日は、ラウンジが混んでおりますので、厨房から離れられないかと。篠田さまの再訪を大変喜んでおりましたが」
香織が丁寧に頭を下げる。
「すごぉーい、篠田さんって、シェフともお知り合いなんですね!」
女性のうちの一人に感嘆され、篠田は益々鼻を高くしていた。
「一回きただけのくせにね」「しかも、そのときクレーム対応に当たったのって、セイボリーの須藤シェフだよ」「ええっ、山崎シェフじゃないの?」「園田チーフがそうさせたの」「それじゃ、またシェフを呼べって騒がれたら、どうするんだろう。今日、須藤シェフ、いないじゃない」
パントリーから様子を窺いつつ、サポーター社員たちがひそひそと囁き合う。
瑠璃はできるだけ篠田たちを視界に入れないようにして、シーズナルティーの準備に専念した。
「なんだ。相変わらず、このラウンジは三段スタンドなんかを使ってるのか」
ところが、篠田の傍若無人な声はここまで響いてくる。
「前にも言ったけれど、本場では、三段スタンドは、料理をいっぺんに出してしまいたい手抜きのときにしか使わないんだよ。ロンドンの老舗ホテル、クラリッジスでは、アフタヌーンティーはコース仕立てで出すのが常識でね……」
またしても、前回と同じような御託を滔々と並べ始めた。あまりの大声に、入り口近くの席のソロアフタヌーンティーの鉄人も、少しびっくりしたように顔を上げる。
だが、篠田が香織を捕まえて説教でもするかのようにくどくど持論を垂れているのを一瞥すると、すぐに手元のスコーンに視線を戻した。
慣れた手つきでスコーンを綺麗に割り、白桃のジャムとクロテッドクリームをたっぷり載せて口に運んでいる。
〝こういうのって、マインドフルネスとも言いますね〟
以前、鉄人がラウンジでの時間をそう話してくれたことがある。
いつも一人でラウンジを訪れる常連の女性が、偶然鉢合わせた同僚たちに「アフタヌーンティーは社交の場なのに、ぼっちでくるなんてありえない」とからかわれていたときだ。
涼音がその起源を語り、アフタヌーンティーは社交だけでなく、一人でじっくり楽しむこともまた本来の在り方なのだと説明をしてみせた。
余計なことはなにも考えずに、ひたすら美味しいものを満喫する――。
そのとき鉄人が、眼の前のことに集中して自らを解放する瞑想法を持ち出して、涼音に加勢してくれたのだった。
きっと、今も鉄人は、周囲のことなど一つも気にせず、純粋にアフタヌーンティーを楽しんでいるのだろう。
ゲストがみんな、そうであってくれたらいいのに。
まだ香織を捕まえている篠田のしたり顔を、瑠璃はちらりと見やった。
本場の知識なんて、喧伝(けんでん)したりしてないで……。